我々が知らなかった本当のアメリカの「B面」と「無料の自尊心」
昭和29年(1954年)生まれの戦後世代にとって、アメリカとは常に憧れの対象であり、人生の見本でした。ハリウッド映画やフォーク&ロック、VANや『マガジンハウス』が提示したアメトラ(アメリカントラディショナル)、そしてアイビーリーグに象徴されるリベラルで多様性に満ちた文化を、私たちは全身で吸い込んできたのです。
しかし、私たちが信じてきたその姿は、アメリカという巨大な国家のほんの表層——すなわち「A面」に過ぎなかったのかもしれません。古舘伊知郎氏と、宗教史・思想史を専門とする立教大学教授の加藤喜之氏による対話は、これまでWebやマスメディアが伝えてこなかったアメリカの深層世界、「B面」の精神構造を鮮やかに解き明かします。
単なる選挙の勝敗や政局報道を超え、なぜ過激なポピュリズムが人々の心を掴むのか。その背景にある構造的疎外、神聖ナラティブ、そして政治的な心理メカニズムを、4つの知的な洞察から深く読み解きます。
日本人が戦後一貫して親しんできたのは、東海岸・西海岸の都市部を中心とする「A面」のアメリカ文化です。アメリカ成功会(立教大学の母体)のようなエリート層の洗練された佇まいや、リベラルで知的な多様性こそが、日本人の描く典型的なアメリカ像でした。
しかし、テキサスをはじめとする南部や「レッドゾーン」と呼ばれる地域には、まったく異なるもう一つのアメリカが存在します。そこには南部プロテスタント(福音派)や中流以下の労働者層が深く根を下ろしており、東海岸のエリティズムに反発する**反知性主義(Anti-intellectualism)**と、素朴で純粋な信仰心を重んじる「B面」の文化が通底しています。
「私なんかはアメリカのA面のうっつらだけ上の文化を深呼吸吸い込みながら生きてきてしまった人間で……本来は通底するようにアメリカを支えてんのはB面の方で、あんまり表に出ない」
戦後の日本人は、A面の文化を吸い込むことでアメリカを知った気になっていました。ですが、現在の激動する世界情勢を理解するためには、表舞台には登場しにくかったB面の精神性こそを注視しなければなりません。
巨額の資産を持ち、倫理的疑惑や過激な言動が絶えないトランプ氏に対し、なぜ厳格なキリスト教福音派やナショナリストたちは熱狂的な支持を寄せ続けるのでしょうか。この不可解な現象を読み解く鍵は、候補者の個性的道徳観ではなく**神聖ナラティブ(神聖なる物語)**の存在にあります。
アメリカ社会では**世俗化(Secularization)**が進み、無宗教層が約3割に達する一方で、全体の約3割は「アメリカは神に祝福されたキリスト教国家である」と強く信じています。彼らにとって、1965年のリンカーン以降の潮流やジョンソン政権下の法的改正、人種・ジェンダーの平等推進や中絶の権利容認といったリベラルな改革は、自分たちの聖なる共同体を解体する暴挙に他なりませんでした。
「アメリカっていうものが神聖な共同体で、神がトランプのような人を使わしてリベラルになってしまったアメリカを復活させるんだっていう、そのナラティブ(物語)は受け入れているんですよね」
福音派や保守派カトリック、モルモン教徒らにとって、トランプ氏は神がリベラル化したアメリカを奪還するために遣わした「1つの器(道具)」に過ぎません。目的が古き良き神聖なアメリカの復活であるならば、その「器」自体の品格や倫理的スキャンダルは問題視されないというロジックが成立しているのです。
1970年代後半から80年代以降、グローバル金融資本主義やテック産業の急成長が進む一方で、アメリカの製造業や伝統的な中流層は置き去りにされてきました。実質的な購買力を失い、親の世代のような豊かな暮らしを維持できない労働者層の中には、深刻な構造的疎外と尊厳の欠如が広がっていきました。
こうした人々に対し、ポピュリズム政治が提示したのが**「無料の自尊心(フリー・セルフエスティーム)」**という巧みな心理メカニズムです。大企業や富裕層への課税強化、財政による再分配構造の変更を一切行わずとも、政治家の「言葉」ひとつで、人々に対して「自分たちは神に選ばれた一級市民である」という自尊心を即座に与える手法です。
「私はこれは無料でアクセスできる自尊心って言うんですけども……産業構造を変えなくても、再分配構造を変えなくても、大企業に課税をしなくても、言葉さえ語っていれば人々は自分たちの自尊心を復活することができる。その代わりに何が起きるかというと、敵ができるわけですね」
実質的な経済政策を伴わずに自尊心を満たすこの構造は、必然的に「敵」を必要とします。リベラル層や移民を「自分たちの尊厳や機会を奪った敵」として明確に線引きし攻撃することで、内部の結束を高めるこの手法は、社会の分断と暴力を加速させる極めて危険な裏返しでもあるのです。
加藤教授の思索の原点は、16歳でのカリフォルニア留学と、その後に出会ったデトロイト出身の黒人ドラマーとの対話にあります。凄惨な人種差別の経験を持ちながらも「キリスト教徒として相手を許す」と語ったドラマーの姿勢に強い衝撃を受けた加藤氏は、怒りではなく「許し」を可能にする宗教と思想の探求へと踏み出しました。
その後、ノーステキサス大学で音楽と哲学をダブルメジャーで学び、原理主義的な福音派教会での生活を経た加藤氏は、オランダのロッテルダムで17世紀の哲学者バルーフ・スピノザの研究に没頭します。イベリア半島での迫害の記憶を持つユダヤ人の血を引くスピノザは、絶対的な聖書解釈を解体(脱構築)することで、異端排除の恐怖を超えた共生社会を模索した人物でした。
「原理主義的な考えが主流でありすぎると共生できないわけですよ。異端者として排除されたり火あぶりの刑になったりするので、なんとかして聖書の権威というのを脱構築していく。その働きが近代のリベラリズム、自由主義的なものを作り出してきた」
排外主義的な原理主義を乗り越え、ユダヤ教徒、キリスト教徒、無神論者が共に生きるために構想されたものこそが、**近代自由主義(リベラリズム)**の本質でした。原理主義の恐ろしさを身をもって知るからこそ、他者の権利を認め共生する自由主義の切実な価値が浮き彫りになるのです。
人類の歴史を振り返れば、人間は権力への執着や自尊心の欲望に流され、幾度となく悲惨な過ちと分断を繰り返してきました。しかし同時に、その暴走を食い止めるために、法秩序や国際規範といった制度的抑止原理を何千年もかけて構築してきたのもまた人間です。
「◯◯ファースト」という単純な排外主義やポピュリズムに身を委ねることは、思考を停止させ、一時的な安寧を得るには非常に容易な道です。しかし、感情的な分断に煽られて歴史が育んできた抑止の知恵を放棄してしまえば、社会は更なる荒廃へと向かってしまいます。
不確実な時代であるからこそ、私たちは安易な敵味方の二元論を排しなければなりません。AIやグローバリズムの狂騒の中で立ち止まり、「人間とは何か」「いかにして異質な他者と共生するのか」という哲学的な問いを重ね続けることこそが、分断の時代を生き抜くための唯一の道標となるのです。