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※このコンテンツはjazzywadaが書いたメルマガ記事をNotebookLMで処理、出力したものです。

※AI音声特有の誤読等がたくさんありますがご容赦ください。

元ネタはこちら

https://jazzywada.blog.jp/archives/1085530159.html

筆者(@jazzywada、または「小生」)が三谷幸喜の映画『ラヂオの時間』を観たことをきっかけに綴った回想録を中核としています。文章の主題は、約40年前に山陰放送(BSS)で担当していた深夜ラジオ番組「わだひろとのミッドナイト・パートナー」の極めて詳細な個人的な経験です。筆者は、番組の共演者(陶山史朗アナ、永東明など)とのエピソードや、放送事故の詳細、さらには番組外での公開録音活動(「三洋、ヤングプラザ OTTO」)など、当時のローカルラジオ局の熱気と内情を生き生きと語っています。末尾の考証部分では、これらの回想が当時のラジオ文化や放送技術(カフレバーなど)と高い整合性を持つ、貴重な証言であることが検証されています。

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マイクオフで喋ってた?元深夜DJの告白が明かす、70年代ラジオの愛すべきカオスIntroduction: The Voice in the Darkness

深夜、チューニングダイヤルを慎重に回し、ノイズの向こうから聴こえてくる声に耳を澄ませたあの頃。ラジオは、マイクの向こう側にいる見えない誰かとの、秘密の時間を共有する魔法でした。

しかし、その滑らかなトークや完璧にセレクトされた音楽の裏側では、一体何が起きていたのでしょうか。1970年代に地方局で「阿太朗(あたろう)」などの名義でも活動した元深夜DJ、@jazzywada氏の個人的な回想録が、私たちの知らない放送現場の、驚くほど人間臭く、カオスで、そして情熱に満ちた真実を明かしてくれます。

それは、完璧に磨き上げられた放送とはほど遠い、生放送ならではの愛すべき現実でした。この記事では、その貴重な記録から浮かび上がった、特に驚くべき4つの舞台裏の物語をご紹介します。

今のように事前に録音されたコンテンツが主流ではなかった1970年代、生放送のラジオは常に失敗の危険と隣り合わせでした。パーソナリティーの@jazzywada氏が回想する放送事故は、当時の緊張感と生々しさを物語っています。

彼が記憶しているだけでも、二度の大きな放送事故がありました。

  1. カフレバーの上げ忘れ事件: 曲が終わった後、マイクがオフのままであることに気づかず、虚空に向かって喋り始めてしまった事故です。「カフレバー」とは、咳払いや不要な音を放送に乗せないよう、ノイズなしでマイクを一時的にオフにするためのレバーのこと。これを上げ忘れたため、彼の声はリスナーに届きませんでした。
  2. 生電話の延長事件: リスナーとの生電話が盛り上がりすぎて終了時刻を大幅に過ぎてしまい、次の定時ニュース番組に食い込んでしまいました。さらに悪いことに、午前1時になるとタイマーで自動的に電源が切れる一部の中継局では電波が停止。ニュースが最後まで放送されないという事態を引き起こしました。

しかし、この物語の真髄はここからです。時間が押してしまった直後、隣のブースからニュースを読み始めたアナウンサーは、アドリブで「わださん、お疲れ様。」と一言。そして、失われた時間を取り戻そうと、必死にニュース原稿を早口で読んでくれたというのです。このエピソードは、筋書きのないドラマであり、スタッフ同士の連携と即興で乗り切る、生放送のヒリヒリとした魅力そのものだったと言えるでしょう。

当時のDJとリスナーの関係は、単なる送り手と受け手ではありませんでした。そこには、放送の枠を超えた驚くほど個人的で深い絆がありました。

ある日、一人のリスナーから「吉田拓郎のコンサートチケットがどうしても手に入らない」というハガキが届きます。それを受け取った@jazzywada氏は、なんと自腹でチケット代(当時としても1万円を超えた2枚分)を立て替え、レコード店で購入。さらに、チケットを折り曲げずに済むよう、その場であり合わせの紙を糊付けして封筒を自作し、そのリスナーに郵送したのです。後日、コンサート当日にそのリスナーから寄せられた感激のメッセージを読んだとき、彼は安堵と同時に大きな喜びを感じたといいます。

また、彼の番組には、ダニエル・リカーリの「二人の天使」をBGMに、リスナーから届いた手紙を甘い声で読み上げる「ラブレター・ミッドナイトのコーナー」という人気コーナーもありました。これもまた、マイクを通して一人ひとりのリスナーと深く繋がっていた時代を象徴するエピソードです。

あるお正月、特別番組として3時間の生放送が企画されました。そのタイトルからして、時代の空気が伝わってきます。『真夜中の開放区、土曜の夜をぶっとばせ!』(だったような、とご本人は記憶を辿ります)。

集まったのは jazzywada氏、「トチリの史朗ちゃん」の愛称で親しまれた陶山史朗氏、そして所ジョージ風のキャラクターで人気だった永東明氏という、当時の人気パーソナリティー3人。スタジオを飛び出し、3人が自由に掛け合うトーク番組は画期的な試みでした。

エネルギッシュで大いに盛り上がった放送の後、彼らは忘れられないフィードバックを受け取ります。番組後に泊めてもらった永東明氏のお母様から、実に率直な感想が告げられたのです。

三人の喋りがかぶりまくって、非常に聴き辛かった。

この手厳しくも愛情のこもったダメ出しは、単なる「微笑ましい逸話」ではありません。それは、アルゴリズムや分析ツールを介さない、作り手と受け手の間にあった生々しいフィードバックループの力強い証拠です。現代のクリエイターがめったに経験することのない、人間味あふれるコミュニティの中でメディアが作られていた時代の、何よりリアルなレッスンだったのです。

地方局のDJという役割は、時にスタジオのブースを飛び出し、思いがけない世界へと繋がっていました。

ある時、番組ディレクターの市橋氏の運転で、米子から広島の「郵便貯金ホール」まで車を走らせ、当時大人気だったブラスロックバンド「シカゴ」のコンサートへ向かったことがありました。これは、レコード会社であるCBSソニーからの正式な招待だったのです。

会場でCBSソニーの担当者に会った際、彼は@jazzywada氏をこう紹介しました。「うちのタレントさんです」。その言葉に、彼は正直、気恥ずかしい思いで一杯になったと語ります。

このエピソードは、当時の地方DJが単なる番組の進行役ではなく、地域の音楽シーンに影響力を持つ文化的なゲートキーパーとして、業界からも一目置かれる「タレント」として扱われていたという事実を浮き彫りにします。その役割は、メディアが細分化された今では失われてしまったものかもしれません。

元DJの個人的な記憶から浮かび上がってきた1970年代の地方ラジオは、どこまでも人間臭く、愛すべき欠点に満ち、そしてリスナーと制作者の激しい情熱によって成り立っていたメディアでした。放送事故という名のライブ感、自腹を切ってでも応えたいリスナーへの思い、そしてプロとは言えないかもしれないが本物の熱気に満ちたトーク。それらすべてが、当時のラジオの魅力でした。

完璧に編集されたポッドキャストやAIが選ぶプレイリストが溢れる今、私たちは生放送ならではの予測不能で、人間味あふれる「カオス」から何を失ってしまったのでしょうか?

Takeaway 1: 放送事故は日常茶飯事!生放送の心臓に悪い(でも愛おしい)現実Takeaway 2: リスナーとの絆は放送を超えた。自腹でチケットを買うDJTakeaway 3: 完璧なトークは存在しない?「喋りがかぶりまくって聴き辛い」という最高のフィードバックTakeaway 4: 地方DJ、ときどき「タレントさん」。レコード会社のおごりでロックコンサートへConclusion: What We've Lost in the Static