Listen

Description

元ネタ https://jazzywada.blog.jp/archives/1085550227.html

2001年7月8日に発行されたメールマガジン「ふりーはーとメールマガジン」の第2号の内容を中心に構成されています。この号の主題は「蛇含草」で、F市の蕎麦屋「D黒屋」の創業25周年記念誌のために著者が執筆しながらもボツとなった戯れ文を「虫干し」として再掲載したものです。ボツ原稿は、古典落語の『蛇含草』を元ネタとして翻案し、地元の古刹「草戸のM王院」や蕎麦屋を舞台に、大食いした友人の滑稽な体験を描くユーモラスな作品です。全体を通して、郷土への愛着と、落語の語り口を交えた洒脱な文体が特徴であり、その内容の考証・精査も併せて示されています。

----

蕎麦、落語、そして20年越しの手紙:あるメールマガジンが明かす「ボツ原稿」の粋な物語

デジタル考古学とも呼ぶべき初期インターネットの探索では、時に思わぬ宝物に出会うことがある。例えば、2001年7月8日に、わずか34人の読者に向けて配信された一本のメールマガジン。その中にひっそりと収められていたのは、1995年に書かれた「ボツ原稿」でした。福山のとある蕎麦屋を舞台に、12人前の蕎麦の饗宴と、古典落語から借用した見事なオチが織りなす、粋な物語です。

それは「梅雨の晴れ間の虫干し」と称され、6年以上の時を経て、ごく私的な空間で蘇りました。引き出しの奥で眠っていた言葉が、インターネット黎明期のささやかなコミュニティの中で再び光を浴びる。一杯の蕎麦をめぐる個人的な思い出が、土地の記憶や伝統芸能と交差し、時を超えて私たちの心をくすぐる。そんな奇跡のような物語の世界へ、ご案内しましょう。

物語の舞台は、福山駅前の一等地にありながら、どこか異質な空気を放つ「繊維ビル」という名の雑居ビルです。著者はこのビルを、「無理矢理,駅前に路地裏空間を創り出すため」に建っているとしか思えない、とユーモラスに描写します。再開発計画が浮かんでは消えるこのビルは、まるで都市計画から意図的に取り残された「魔巣窟」のよう。そして、こう付け加えるのです。「ウソです。」と。

この一言に、著者の筆致の妙が光ります。街への愛情と軽やかな皮肉が同居する、その独特の視線。そして、その「魔巣窟」の一角に、著者が「我が愛すべき」と呼ぶ出雲蕎麦の名店「D黒屋」はありました。この店こそが、これから紐解かれる物語の中心地なのです。

この物語の核心である「ボツ原稿」は、もともとD黒屋の創業25周年を祝う記念誌のために書かれたものでした。その原稿の末尾には「26th Mar.'95 h.wada」と記されています。1995年3月26日、著者は常連客でも上客でもないと謙遜しつつも、祝賀のために筆を執り、一編の「戯れ文」を書き上げたのです。

祝賀会そのものは市長も駆けつけるほど盛大に行われたものの、肝心の記念誌は一向に発行される気配がありません。やがて店の30周年すら過ぎてしまった頃、著者はこの原稿が不憫になり、自身の個人メールマガジンで公開することを決意します。2001年7月8日、発行部数わずか34部。ごく親しい読者に向けて、6年越しの「虫干し」として届けられたこの文章は、その出自からしてなんともユニークな運命を辿ったのでした。

このボツ原稿がただの随筆と一線を画すのは、その見事な語り口にあります。著者は、原稿のタイトルを『大黒天 「含蛇草」』とし、元ネタが古典落語の演目『蛇含草(じゃがんそう)』であることを明かした上で、その世界観を巧みに文章へと落とし込んでいます。

なぜ落語だったのか。それはおそらく、誇張と人情、そして鮮やかな「オチ」で締めくくる落語の様式こそが、D黒屋という店の持つ温かくもどこか滑稽な空気感と、そこに集う人々への愛情を表現するのに最もふさわしい器だったからでしょう。

「人を呑むてぇますか」「好きな事てぇなあ」といった江戸落語特有の口調。「ゐ」や「を」といった歴史的仮名遣いを意図的に用いることで、文章全体に古風で洒脱な雰囲気をまとわせています。読者はいつしか、福山の蕎麦屋の思い出話を読みながら、まるで寄席の最前列で噺家の名演に耳を傾けているかのような錯覚に陥るのです。

『大黒天 「含蛇草」』と題された原稿に綴られる物語は、著者の友人が登場することでクライマックスを迎えます。大変な蕎麦好きだというその友人は、D黒屋で「わりご」と呼ばれる出雲蕎麦を、なんと12人前(36枚)も平らげてしまいます。

満腹でごろりと横になったかと思えば、むっくりと起き上がりトイレへ向かう友人。しかし、なかなか戻ってきません。店の主人に促され、著者が様子を見に行くと、そこには信じがたい光景が広がっていました。

蕎麦が背広を着て,便器をかかえ込んでゐた。

食べた蕎麦そのものが人格を得て苦しんでいるかのような、強烈にして滑稽な比喩表現。このあまりに衝撃的な光景を描写した直後、物語は完璧な一文で締めくくられます。

「(やっこさん「蛇含草」を服(や)ってたんですな。)」

大食いの後に苦しむ様子を、人を呑んだ大蛇が消化のために飲むという伝説の草になぞらえる。これぞまさに、古典落語の様式に則った、見事な「オチ」と言えるでしょう。

一杯の蕎麦をめぐる個人的な思い出話。それは、福山という土地の記憶を呼び覚まし、古典落語という伝統芸能の粋なユーモアを伝え、そして2001年というインターネット黎明期における個人発信の文化を鮮やかに映し出します。巨大なプラットフォーム以前の、親密なコミュニティに向けて綴られた言葉の熱量。それは、現代の私たちが少し忘れかけている、パーソナルな表現の豊かさを示してくれます。

引き出しの奥で眠っていた言葉が、時を経て誰かに届く。それはまるで、遠い昔に瓶に詰めて流した手紙が、思いがけない岸辺に流れ着くような奇跡なのかもしれません。

あなたの身の回りにも、語られる日を静かに待っている物語はありませんか?

1. 舞台は福山駅前「繊維ビル」、愛すべき蕎麦屋の物語2. 幻の記念誌と、陽の目を見なかった「戯れ文」3. 古典落語『蛇含草』を翻案した、見事な語り口4. 圧巻のクライマックス:蕎麦12人前と衝撃のオチおわりに:一杯の蕎麦が繋ぐ、時と文化の物語