元ネタ https://jazzywada.blog.jp/archives/1085548845.html
2001年12月2日に配信された「ふりーはーとメールマガジン」第23号のエッセイであり、「酒」を主題としています。筆者は、煙草が思考に作用するのに対し、酒は情緒や抒情に深く影響を与えるという考察から論を進めています。特に、古典落語**「鉄拐(てっかい)」のあらすじを紹介し、仙人の腹の中で酒豪の詩人、李白と陶淵明が大喧嘩をする場面を引用しています。そして、李白の「将進酒」や陶淵明の「飲酒」といった漢詩の引用を通じて、酒がもたらす深遠な境地を論じながらも、自身の凡庸な飲酒生活を自嘲しています。最後に、読者への深酒の自重や、当時のコンピュータウィルス、詐欺といった社会情勢への注意喚起**を後記として添えています。
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仙人のお腹で大喧嘩?落語と漢詩に学ぶ、お酒がもたらす意外な世界序文:いつもの一杯に隠された、奥深い物語
仕事終わりの一杯、友人との語らいの一杯。私たちにとってお酒はごく身近な存在ですが、そのグラスの向こうには、古来より人々の心を揺さぶり、芸術の源泉となってきた奥深い世界が広がっています。同じ嗜好品でも、タバコとは少し違う、人間の感情の深い部分に作用する力がお酒にはあるのかもしれません。
この記事では、そんなお酒がもたらす不思議な世界を、ある奇妙な落語の噺と、中国の伝説的な詩人たちの言葉から探っていきます。仙人のお腹の中で繰り広げられる大喧嘩の物語と、酔いの中に究極の境地を見出した漢詩の世界。いつもの一杯が、少し違って見えるようになる、そんな旅にご案内しましょう。
嗜好品と一括りにされがちなタバコとお酒ですが、両者は人間の心の異なる部分に作用する、という考え方があります。
それによれば、タバコは思考の「理屈」を司る部分に働きかけるとされます。だからこそ、戦略を練るような思考型のゲームにはタバコが似合うのかもしれません。一方で、お酒は人間の「情緒」や「抒情」といった、感情の奥深くにある部分に作用すると考えられています。これからご紹介する物語は、まさにお酒が引き起こした「情緒」の、いやはや、壮大な暴走と言えるでしょう。
ご紹介するのは「鉄拐(てっかい)」という落語の噺です。今ではあまり演じられませんが、名人・立川談志が掘り起こしたことで知られる、一風変わった一席です。
舞台は中国。上海の貿易商が、年に一度の祝賀会で披露する「世界に二つとない芸」を探していました。手代が苦心して見つけてきたのが、中国八仙人の一人である仙人「鉄拐」。彼の術は「一身分体」といい、自分のお腹の中からもう一人の自分を出し、それを見て楽しむというものでした。
この芸は最初こそ大人気でしたが、次第にマンネリ化して飽きられてしまいます。そこへ現れたのが、瓢箪から馬を出す術を使う仙人「張果老(ちょうかろう)」。彼の芸が「莫迦受け」にウケたことで、鉄拐はすっかり人気を奪われてしまいました。嫉妬に燃えた鉄拐は、対抗すべく窮余の一策を講じます。なんと、お客さんを全員まるごと自分のお腹の中へ入れて、中で馬に乗った鉄拐を見せるという、前代未聞のパフォーマンスを始めたのです。
これがまた大変な人気を呼びましたが、中には柄の悪い客もいました。ある日、文士の集まりを腹の中へ入れたところ、事件が起こります。酒が入っていた客たちが中でメチャクチャに騒ぎ出し、中でも高名な詩人である李白と陶淵明が、とっ組み合いの大喧嘩を始めてしまったのです。これには仙人もたまらず、二人をまとめて外へ吐き出してしまいました。
物語の中では同時代人のように喧嘩をしていますが、実際には二人が活躍した時代は数百年も異なります。しかし、そんな矛盾も許されてしまうのが、落語の持つ荒唐無稽でファンタジックな世界の魅力なのです。
物語の中では大喧嘩を繰り広げた二人ですが、現実の彼らは、歴史に名を刻むほどの大の酒好きであり、その想いは数々の名詩となって今に伝わっています。彼らが酒に求めた境地は、それぞれ少し異なっていました。
唐代の詩人・李白は、情熱的で豪放な酒の飲み方で知られています。彼の詩には、理性を超えて酔いの世界に浸りきる、その奔放な生き様が映し出されています。
会須一飲三百杯 (飲めば必ず三百杯はやってしまう) 但願長酔不用醒 (ただ長く酔っていることを願い醒めたくもない)
また、「山中対酌」という詩の中では、ただひたすらに杯を重ねる様子が描かれています。
一杯一杯復一杯 (一杯,一杯,また一杯)
まさに喧嘩上戸を彷彿とさせる、底なしの酒への愛が伝わってくる名句です。
一方、東晋の詩人・陶淵明にとって、お酒はより哲学的で、深い思索へと至るための道でした。彼の詩「飲酒」には、酔いを通じて自己や世俗の価値観から解放され、広大な境地に至る様が描かれています。
不覚知有我 安知物為貴 悠悠迷所留 酒中有深味
(自分が何処にいるのかも判らなくなり,まして,ものごとを尊重したり気にかけたりできやしない。こころは悠々とひろがり,留まるところを知らず。なんと酒の作用には深い味わいがあることよ。)
お酒の中に、ただの酔いではない「深い味わい」を見出し、物事のしがらみから解き放たれる境地。これもまた、お酒がもたらす一つの極致と言えるでしょう。
仙人のお腹の中で大暴れするほどの激情と、自己を超越した静かな境地。落語の奇想天外な物語と、漢詩の深遠な世界は、どちらもお酒が人間の「情緒」をいかに強く揺さぶるかを教えてくれます。これらは、私たちが酒に求めるものの両極端な姿なのかもしれません。元の筆者もまた、「いくら酒の力を借りたとて凡庸な頭には詩の一片が浮かぶ筈もない。鉄拐の腹中で李白と陶淵明がどんな文学論を闘わせ、果てにとっ組み合いの喧嘩に至ったかに思いを馳せるのが関の山だ」と自嘲気味に語っています。
偉大な詩人たちでさえ、熱い文学論の末に拳を交えてしまう。それほどの激情を引き出すのも酒ならば、万物から解き放たれた静寂をもたらすのもまた酒。私たちが今日グラスに手を伸ばすとき、そこに求めているのは創造へと向かう高揚か、それとも混沌へと身を委ねる解放なのでしょうか。今宵の一杯は、あなたをどんな世界へ連れて行ってくれるでしょう。
お酒は「情緒」、タバコは「理屈」に作用する仙人の腹の中で、伝説の詩人たちが大喧嘩喧嘩するほど愛した酒。詩に遺された「酔いの境地」李白の豪快な酒陶淵明の深い味わい結論:私たちは、お酒に何を求めているのだろう?