元ネタ https://jazzywada.blog.jp/archives/1085548658.html
ワダ氏が発行した2002年のメールマガジンをブログ記事として再掲したもので、馴染みの蕎麦屋「D黒屋」での正月エピソードが中心に綴られています。筆者は、自身の落語への造詣や山陰地方での経験を交えながら、蕎麦屋の夫婦との温かな交流や、偶然食べることになった賄いカレー蕎麦のユーモラスな顛末を紹介しています。また、年越し蕎麦の由来や初詣に対する独自の死生観など、新春の風物詩に関する考察も深く記述されているのが特徴です。後半には、人工知能を用いた音声コンテンツ化やポッドキャスト配信に関する現代的な案内も含まれています。全体を通して、伝統的な食文化や古典芸能を慈しむ筆者の知的なライフスタイルと、長年続く個人メディアの歩みを俯瞰できる内容となっています。
NotebookLM の出力を編集しました。
一杯の蕎麦に、人生の深み。20年前のエッセイが教える、行きつけの店の心温まる物語導入
年の瀬が近づくと、多くの日本人が思い浮かべる「年越し蕎麦」。一年の締めくくりに家族で蕎麦をすする光景は、私たちにとって馴染み深い文化です。しかし、そんな何気ない習慣や、いつも通る角にあるような地元の蕎麦屋さんに、私たちがまだ知らない、奥深い物語が隠されているとしたらどうでしょう。
この記事では、20年以上前に書かれたある個人のエッセイを紐解きながら、一杯の蕎麦の向こう側に見えてくる、5つの意外で心温まる発見をご紹介します。それは、単なる食文化の話にとどまらず、人と人との繋がり、言葉の温もり、そして職人の矜持(きょうじ)に触れる、ささやかで豊かな旅です。
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年越し蕎麦を食べる理由として、多くの人が「蕎麦のように細く長く、長寿でありますように」という願いを思い浮かべるでしょう。しかし、エッセイの筆者は、もっと人間味あふれる、別の由来を好んで紹介しています。
それは、金箔職人にまつわる話です。かつて、金箔職人たちは作業場に散らばった細かい金粉を、蕎麦粉を練った団子でくっつけて集めていたそうです。この故事から転じて、「金が集まるように」という願いを込めて蕎麦を食べるようになった、というのです。
筆者はこの由来を「俗っぽくて良い」と評します。確かに、高尚な長寿の願いよりも、もう少し現実的で、生活に根差した金運への願いの方が、なんだか親しみが湧きませんか。
昔,金箔職人が散らばった金粉を蕎麦で集めた故をもって「金が集まる」ようにと云うのが俗っぽくて良い。
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筆者には「D黒屋」という行きつけの蕎麦屋さんがあります。彼らは常連として、店が混み合う時間を避け、暖簾を仕舞う少し前の静かなひとときを大切にしています。そんな親密な関係があるからこそ起きた、忘れられない「事件」がありました。
ある日、店の客が自分たちだけになった頃、お店のお母さん(女将さん)が自分たちの賄いのためにカレーを温め始めました。その香りに、筆者は思わず「わーー、良い匂い」と声を上げますが、直後に「しまった」と後悔したそうです。しかし、時すでに遅し。
「運の悪いとは、こういうものだ」と筆者は嘆きます。なんと、ちょうど3人前の蕎麦が残っていたのです。ご主人はその蕎麦でかけそばを作り、あろうことかその上に温めたカレーのルーをかけてしまったのです。
結果はご想像の通り。しかし筆者は、この即興の一杯を「非道い」と評しつつも、その矛先を自分たちに向けます。このユーモラスな一幕は、単なる温かい関係性の証ではありません。常連客がうっかり口を滑らせて、店主を巻き込み、 culinary disaster(料理の大失敗)を笑い合えるほど、気取らない信頼関係がそこにあったことの証明なのです。
勿論,正月そうそう,非道いことをしたのは,私たちである。
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会話の中に、ふと現れる古風な言葉や方言。それに心を掴まれた経験はありませんか。エッセイの中で、筆者はそんな「宝物」を見つけます。
D黒屋のお母さんが、切れた電球のことを指して「ほや(火屋)」と言ったのです。「ほや」とは、ランプのガラス製の覆いや、電球のカバーを指す古い言葉。筆者はかつて山陰地方に住んでいたことがあり、この言葉を聞いた瞬間、懐かしさで胸がいっぱいになったと語ります。
たった一言が、個人の記憶の扉を開き、遠い日の風景を呼び覚ます。日々の忙しさの中で忘れ去られゆく言葉には、人の生きてきた歴史や土地の温もりが宿っています。何気ない会話の中に、そうした宝物を見つける喜びは、行きつけの店ならではの醍醐味かもしれません。
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筆者には、初詣に関する独自の哲学があります。多くの人が有名な神社に押し寄せる三が日を避け、あえて人が少ない時期にお参りする方が、神様もゆっくり願い事を聞いてくれるのではないか、と。
しかし、彼はすぐにこう付け加えます。「色々云っても、ここ何年も初詣をしたことがないのは不信心だからだ」。この自嘲的な告白が、彼の哲学に人間味を与えます。
彼の蕎麦屋での過ごし方も、この考え方に通じています。彼がD黒屋を訪れるのは、大晦日の喧騒が嘘のような、正月が明けて落ち着いた頃や、一日の営業が終わろうとする静かな時間。筆者は、初春の閑散とした蕎麦屋の雰囲気にこそ「御利益がありそう」だと感じています。本当の豊かさや恵みは、人々の喧騒の中ではなく、心静かに自分と向き合える穏やかな時間と空間に宿るのかもしれません。
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D黒屋のご主人は、常々こう口にしていたそうです。「自分は料理人(板前)じゃないから」。
これは決して謙遜ではありません。筆者の注釈によれば、「蕎麦打ちが仕事心得ているとの謂い(蕎麦を打つことが自分の本分だと心得ている、という意味)」であり、自身の仕事への深い誇りを示す言葉なのです。ご主人は、天ぷらなども作る幅広い「料理人」ではなく、ただひたすらに蕎麦を打つ「蕎麦打ち職人」であると自認しているのです。
この精神は、古くからの言い回しにも表れています。「蕎麦屋は包丁が切れない」ということわざがあるそうで、これは蕎麦切り包丁以外の調理は専門外だという、職人の潔い専門性を示唆しています。この一言には、一つの道を極める職人の魂が凝縮されているのです。
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20年以上前のエッセイが教えてくれたのは、一杯の蕎麦が、単なる食べ物以上の価値を持つということでした。そこには金運を願う人々の願いがあり、店主と客の温かい交流があり、失われゆく言葉の記憶があり、そして職人の揺るぎない矜持がありました。
その温かさを象徴する、もう一つの素敵なエピソードがあります。時々、お店のお母さんは、蕎麦の生地の切れ端を「蕎麦の耳」と名付けて袋に詰め、帰り際に持たせてくれるそうです。筆者の家では、それが翌朝の味噌汁の具になるといいます。
私たちの周りにある、いつも通う喫茶店や定食屋にも、きっとこんな物語が息づいているはずです。次にあなたがその店の暖簾をくぐる時、少しだけ耳を澄ませ、目を凝らしてみてください。
あなたの行きつけのお店には、どんな素敵な物語が隠されているでしょうか?
1. 年越し蕎麦の本当の願い?「細く長く」より面白い、もう一つの理由2. 最高の関係が生んだ「ひどい」一杯:カレー蕎麦事件3. たった一言に宿る宝物:失われゆく言葉「ほや」の温もり4. 本当の御利益は「静けさ」の中に:神社と蕎麦屋の共通点5. 「自分は料理人じゃない」:蕎麦打ち職人の矜持結び