元ネタ https://jazzywada.blog.jp/archives/1085550145.html
「ふりーはーとメールマガジン」の第5号(2001年7月29日発行)の抜粋であり、主に**「常套句」をテーマにした筆者の考察と身辺雑記で構成されています。このエッセイは、「八月子(やつきご)」という短気を指す言葉の語源を考察し、自身が実際に早産で未熟児であったという皮肉な事実と関連付けています。さらに、人間ドックで指摘された「緑内障の疑い」についての眼科受診の顛末を詳細に描写しており、検査で判明した「視界の欠損」**という身体的な現実と、比喩表現としての「視野が狭い」という常套句を関連付けて結びの言葉としています。全体として、個人的な健康問題とユーモアを交えた言葉への考察が巧みに構造化された内容となっています。
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言葉が現実になるとき ― 私が「禁句」にしてほしい2つの常套句
新聞に目を通していると、私たちはしばしば「常套句」というものに出会います。「さっそく水しぶきをあげていた」「参加者たちは、心地よい汗をながしていた」「古式ゆかしく伝統にのっとり…」。記事の細部を読まなくても、おおよその内容が想像できてしまう、思考を少しだけ省略できる便利な言い回しです。
ほとんどの場合、これらの言葉は私たちの日常を何事もなく通り過ぎていきます。しかし、もしそのありふれた言葉が、自分の個人的な現実と予期せず、そしてあまりにも正確に重なってしまったらどうなるでしょうか? 今日は、私にとってそんな「洒落にならない」意味を持ってしまった、2つの常套句についてお話ししたいと思います。
気の短い人、大阪弁で言うところの「いらち」を指して「八月子(やつきご)」という言葉があります。手元の辞書には載っていないので、もしかしたら地域独特の言い方なのかもしれません。
その語源は、こうです。お腹の中に赤ちゃんがいる期間は「十月十日」といわれますが、それより早い八ヶ月で生まれてくる子は、きっと世の中を早く見たくてせかせかしていたのだろう、という想像から「八月子=短気な性格」という図式が生まれたようです。
私自身、家庭では気短かなことが多いようで、家人からはすぐに「この八月子が」と、この常套句で諫められることもしばしばです。しかし、ここに一つ、皮肉な事実があります。何を隠そう、私自身が「相当な早産」で生まれた、いわゆる「未熟児」だったのです。母から聞いた話では、産婆さんには「果たしてちゃんと育つやら」と心配されたそうで、祖母にいたっては、私の姿を「蛙の皮を剥いたようだった」と表現したとか。寝かせるのに座布団一枚あれば十分だったというのですから、その小ささが窺えます。
そんな背景を持つ私にとって、この言葉は単なる比喩ではありません。
文字通りの「八月子」に対して,多少,いらいらと,せかした言動を取ったとしてもこの言葉を用いるのは,いかがなものか。(別に怒っているのではなく,洒落にならないの謂(い い)である。)
短気な性格を指す言葉が、その人の出生の事実そのものでもある。この奇妙な一致は、笑うに笑えない、私だけの特別なトゲとなってしまったのです。
もう一つは、「視野(界)が狭い」という言葉です。これは通常、物事の見方が偏りがちで、狭い範囲でしか物事を判断しないような人を指す、比喩的な常套句として使われます。
数年ぶりに人間ドックに入ったときのこと。「高脂血症、脂肪肝、胆嚢ポリープ…」といった毎度の所見は、いつものことかと聞き流していたのですが、その中に一つ、気になる記述が紛れ込んでいました。「右目,視力低下,緑内障の疑いあり」。
緑内障は、自覚症状がほとんどないまま、徐々に視界が狭くなっていく厄介な病気です。仕方なく眼科の門を叩くと、医師は首を傾げました。「うーん。ワダさんの場合、眼圧が低いですね。範囲内の最低ラインです。緑内障ではないと思いますが…」。
診断をはっきりさせるため、視界を測定する検査を受けました。直径1メートルほどのお椀型のスクリーンに映る光の点が見えたらボタンを押す、という単純なものです。しかし、その結果は芳しくありませんでした。医師は再び、うーんと唸ります。
「ワダさんの場合、右目の目頭側から盲点にかけて、視界が欠けています。でも眼圧が低いから、緑内障に該当する進行性のものか、先天的なものか、判断しかねます。人間ドックの診断で『緑内障の疑いあり。』、また、私が『疑いあり。』では、まずいかなぁ。(笑)」
身体的に「視界が欠けている」という、なんとも煮え切らない診断。この事実を突きつけられて以来、精神的な偏りを指す「視野(界)が狭い」という言葉が、どうにも気まずいものに変わってしまいました。この言葉も小生に対しては禁句にして頂きたいと思っている今日この頃である。
「八月子」と「視野(界)が狭い」。
この2つのありふれた言葉は、私にとって、もはや単なる比喩表現ではなくなりました。ひとつは自らの生まれを、もうひとつは自らの身体の状態を、あまりにも直接的に指し示す言葉となってしまったからです。
言葉の意味は、辞書に書かれていることだけが全てではありません。私たちの個人的な経験を通して、その響きや重みは絶えず変化していくものです。抽象的だったはずの常套句が、ある日突然、誰にも代わることのできない具体的な現実と結びつく。言葉とは、かくも不思議で、パーソナルなものなのだと、つくづく感じさせられます。
あなたにとって、特別な意味を持つようになった“ありふれた言葉”はありますか?
その一:「八月子(やつきご)」― 早まった性格?それとも、ただの事実?その二:「視野が狭い」― 心の問題?それとも、目の問題?結び:言葉の意味は、誰が決めるのか