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1993年の技術者日記に見た、現代に通じる4つの驚き

朽ちかけたフロッピーディスクからデータを救出する作業は、時にタイムカプセルを開ける行為に似ている。今回発見したのは、1993年5月、ある地方都市に住む一人の技術者が残した個人的な日記の断片だ。まだインターネットが普及する前の、しかし確かに現代へと繋がる時代の息吹がそこには刻まれていた。仕事や家族との日常、テクノロジーへの飽くなき探究心、そして社会の矛盾に対する生々しい感情が、驚くほどの解像度で綴られていたのである。30年以上前の一個人の記録から浮かび上がってきた、現代の私たちをもハッとさせる4つの発見をご紹介したい。

日記が記された5月5日、日本は「こどもの日」だった。著者は「女房が,柏餅を作ってくれた.よもぎ入りなり」と、家族との穏やかなひとときを記録している。しかし、その平和な日常の記述のすぐ隣には、カンボジアPKO派遣で文民警察官が犠牲になったニュースに対する、まるでマグマのような激しい怒りが記されていた。そのギャップはあまりに鮮烈だ。

「とんでもない,そんなことをのたまう奴,てめえが行け.行って死ね.ばかやろう.勤務上,どうしてもとなれば,断れぬことかもしれぬ,ひとり断れば,代わりが誰か行かねばならぬのだろうし.のうのうと背後でほざいてる奴のために死ぬわけにはいかぬが.」なんともやりきれぬ思いである.

これは単なる政治批判ではない。安全な場所から「名誉ある犠牲」と口にする権力者やメディアに対する、一個人の人間としての倫理的な憤りだ。手作りの柏餅を味わう平和な日常を大切にするからこそ、理不尽に命が失われることへの怒りがこれほどまでに燃え上がる。そのコントラストに、私たちはこの著者の偽らざる人間性を見るのだ。

今や私たちは、数クリックでOSをインストールし、複雑な開発環境すらクラウド上で瞬時に構築できる。しかし1993年、PCを意のままに操ることは、知力と忍耐を要する壮絶な格闘だった。著者は当時、愛機であるPC-98ノートに専門家向けのOSであるUNIX(386BSD)をインストールしようと、連休を費やして奮闘する。

その戦いは一週間にも及んだ。5月8日、手持ちの「ICMのHDDが認識しない」という最初の壁にぶつかる。翌9日も挑戦するが「IPLがうまく行かない」。10日には同僚の三島氏と交渉し、NEC純正のHDDを借りることに成功。11日、ようやくブートまで漕ぎ着けるも、今度は「システムの展開中にディスクフルになり失敗」。そして5月16日、友人のNOS氏の助けを得て、ついにUNIXを動かし始める。この試行錯誤の記録は単なる昔話ではない。テクノロジーが魔法ではなかった時代、その仕組みを理解し、乗りこなそうとした技術者たちの純粋な知的好奇心と情熱の証なのだ。

このUNIXとの格闘に見られる粘り強さと体系的な思考は、彼の趣味の世界にもユニークな形で現れる。

この技術者の面白さは、その思考が専門分野に留まらない点にある。彼はある日、趣味で集めた落語全集の中から「まくら」で語られる小話だけを抜き出して電子ファイル化し、必要な時にいつでも検索できるようにするという、突拍子もないアイデアを思いつく。

その発想の核心は、具体的なコマンド名に表れている。「A>grep "猫" .(cr) で,猫の小話の山がでてくると云ふ寸法である」。これは、単なるデータ整理術ではない。情報を構造化し、コマンド一つで自在に検索・再構成するというコンピューティングの本質的な力を、落語という伝統文化の楽しみへと応用しようとする、遊び心に満ちたハッカー的思考そのものだ。事実、彼は仕事でも5月1日に「新浜浄化センター管理報の概要構想」と題し、処理場のフローから人員配置まで、膨大な技術情報を体系的に整理しようと試みている。仕事で技術データを構造化するのと同じ思考で、趣味の文化データを構造化して楽しもうとする。その姿勢に、私たちは著者のユニークな人物像を垣間見ることができる。

この日記の白眉とも言える洞察は、5月23日に出席した高校の同窓会の翌日に記されている。彼は同窓会を「さながら,出世コンテスト(品評会)」と冷ややかに評し、空虚な見栄を張り合う旧友たちの姿に違和感を覚えていた。その個人的な体験が、ワープロで「書く」という行為の意味を深く掘り下げるきっかけとなる。

こうやってこの装置に文章で入力し,定着(?)させた事柄は,しゃべりの話題として,いくらかの自負をもって,しゃべり得る事柄となりえている.これはなかなか面白い発見であり驚きである.

これは、単にワープロが便利だという話ではない。同窓会で感じたような、中身のない会話や借り物の言葉への嫌悪感。それに対する彼なりの処方箋なのだ。キーボードで文章を打ち込む行為は、頭の中の漠然とした思考や感情を言葉として定着させ、論理的に再構築するプロセスである。そして、そのプロセスを経た事柄は、他人の真似ではない、自信を持って語れる「自分の言葉」になる。書くことは、思考を鍛え、社交の場でさえも自分自身でいられるための、強力なツールなのだと彼は発見したのだ。

30年以上前の、ある個人の日記。それは単なる過去の記録ではなかった。そこには、社会への真摯な眼差し、テクノロジーと格闘する喜び、日常に潜む知的な遊び心、そして書くことを通じた自己発見という、現代の私たちにも深く通じる普遍的なテーマが息づいていた。技術がどれだけ進化しても、人間が向き合う課題の本質は、そう簡単には変わらないのかもしれない。

ふと、こう考えさせられる。私たちが日々生み出しているこの膨大なデジタル記録は、30年後の誰かにとって、いったい何を語りかけることになるのだろうか。私たちの記録が未来の誰かにとって意味を持つかどうかは、それを発見し、文脈を読み解こうとする未来の「アーキビスト」の存在にかかっているのかもしれない。