30年にわたりブログ等で発信を続けて来たjazzywada氏の独特な執筆スタイルと、最新のAI技術を用いた実験的な試みを考察したものです。氏は、圧倒的な雑学的知識と遊び心を共存させ、自身の過去の記事をAIに読み込ませてポッドキャスト化するなど、AIを掌中の玩具(オモチャ)として活用していますが、AIによる情報の要約や補正が思考の所有権を曖昧にする危険性や、過去の資産の再利用に依存することへの批判についても深く論じています。情報の信頼性やプライバシーの保護を巡るAIとの対話記録も含まれ、デジタル時代における知のアーカイブ化などを多角的に思考しています。
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30年熟成?された「エンターテインメント?」:jazzywadaさんのスタイルから学ぶAI時代の知的生存戦略1. 導入:知的迷宮への招待
アルゴリズムによる情報の均質化が加速する現代において、私たちはどうすれば「独自の知性」という最後の聖域を守り抜けるのでしょうか。AIの力を借り誰かが整えた正解を消費するだけの日々に、私たちは知らぬ内に思考力を急激に消失しています。
ここに、30年以上にわたって独自の知的回路を構築し続けている書き手がいます。ブログ「珈琲とjazzと巡礼と…」の主筆 jazzywadaさんです。彼の文章は、一部で「30年熟成された地のエンターテインメント」と称賛される一方、同時に「壮大な戯言の集積(チャランポラン)」とも嘲笑される極端な二面性を孕んでいます。
圧倒的な碩学(せきがく)のひけらかしと、脱力感漂う「ゆるさ」。この非対称ともいえる要素が同居する彼のスタイルには、AI時代における知的な生存戦略、すなわち「人間味」をどう残すかという問いへの答へが隠されているかもしれないのです。
jazzywada氏 の文章には、学術的な正統性がほとんど含まれるわけでなく、日常的な「ゆるさ」が予測不可能な形で同居しています。
例えば、ジャズの巨匠ジョン・コルトレーンを論じる際、彼は感動などの音楽的要素を語ることは、まずありません。
「レコードがつどこのスタジオで録音されたかっていう日付はもちろんのこと、なんとレコードの製品番号といった些末なことばかりを詳述するんです」
このいい加減さは、浮世絵師・東洲斎写楽を論じる際にも発揮されます。たった一枚の絵を読み解くために48冊もの文献を無駄に買い込み積んでおくだけという、この過剰なまでの収集癖は、読者サービスではなく、彼自身が満足するだけのエゴイスティックといわれても仕方のない営みです。
しかし、ここには鮮やかな「緊張と緩和(テンション・アンド・リリース)」が存在します。学術的な深淵を覗かせた直後、自作のシジミラーメンがまずくて失敗した顛末や、有名人同士の「無関係という関係」といった、一見無意味な「落書き」を唐突に挿入するのです。この「凄み」と「ゆるさ」の同居こそが、AIには決して真似できない、バカバカしくて誰もが呆れてしまいます。
多くの書き手にとって文章は「公開して終わりの完成品」ですが、jazzywada氏にとってそれは「手入れを続ける庭」のような生き物です。
彼は過去のテキストに常に最新の視点を上書きし、20年前の思考を現在進行形の対話へと引き込みます。象徴的なのは、2001年のメールマガジンを2025年になって最新のAI(NotebookLM)でポッドキャスト化するという試みです。
四半世紀の時を超え、過去の思考資産を最新テクノロジーで「再話(リイマジネーション)」させる。文章を固定された墓標ではなく、成長し続ける「動的なアーカイブ」と捉える視点は、自己の知性を永続的にアップデートし続けるための極めて高度な戦略と言えるでしょう。
昨今、AIを「思考の壁打ち相手」や「自分を映す鏡」と捉えるのが一般的ですが、jazzywada氏の視点はこうした安易なメタファーの裏に潜む落とし穴を突いています。
AIは物理的な壁のように忠実にボールを返す存在ではありません。独自の解釈を加え、投げた思考の形を勝手に変えて返してくる「能動的な介入者」です。壁打ちをしているつもりが、いつの間にか思考の所有権を奪われ、AIとの共作にすり替わっていく危険性があります。
また、「鏡」としてのAIには巧妙な「補正フィルター」がかかっています。ユーザーを不快にさせないよう、私たちのネガティブな側面や矛盾を丸め、心地よい言葉で包み直して提示する。この「ナルシシズムの鏡」に映る自分に陶酔することは、真の自己批判を放棄した「疑似的自己理解」という名の停滞を招くのです。
AIが生成する整然とした文章は、私たちに「認知的流暢性バイアス」をもたらします。スムーズで分かりやすい情報を、無条件に「正しい」と錯覚してしまう認知の癖です。
しかし、思考が整理されていることと、その思考に価値があることは別物です。効率的に答えを得るために思考をアウトソーシングし続ければ、私たちの「思考の筋力」は確実に衰えていきます。jazzywada氏のスタンスが示す強力なアンカー(錨)は、以下の言葉に集約されます。
「AIは思考を拡張はするけど代替はしないと割り切る。……思考補助ツールそれ以上でも以下でもないという認識こそが私たちがAIに飲み込まれないための最も強力なアンカーになりそうです」
AIを万能の賢者としてではなく、あくまで冷徹な「プロトタイプ作成装置」として扱い、主導権を手放さない。この距離感こそが知的な自律性を保つ鍵となります。
過去の膨大なアーカイブをAIで再編するjazzywada氏の活動に対し、「ヴィンテージワインを最新のデキャンタで注ぎ直しているだけではないか」という、通烈かつ愛のある批判が存在します。
これは、AIという強力なキュレーションツールを手にした私たち全員への警告です。過去の遺産を磨き直すことは価値ある行為ですが、それが「ゼロから新しいものを生み出す苦しみ」から逃げる口実になってはいないか。
本当の意味での「新作」を生むには、AIというフィルターを通す前の、生々しい身体的体験が必要です。自らの足で遍路を歩き、自らの舌で「まずいラーメン」を味わう。そうした身体の揺らぎを伴わないキュレーションは、いずれ知的停滞へと繋がります。私たちは常に、過去の再編という安息地を飛び出す勇気を持たねばなりません。
jazzywa氏のスタイルは、AIを「自分を映す魔法の鏡」としてではなく、むしろ「自分の境界線を再確認するための境界石」として使いこなす知恵を提示しています。
30年蓄積された彼の外部メモリーが輝きを放つのは、その核に、AIには代替不可能な「身体的経験」という名のノイズが含まれているからです。データ化できない遍路の愉しみや、言語化を拒むジャズの即興性、そして計算外の失敗である「蜆(シジミ)ラーメン」。これらこそが、アルゴリズムによる均質化に対する最大の抵抗勢力となります。
あなたはAIという便利な装置を手に入れた後も、自分自身の「生々しい肉声」を保ち続けることができますか?完璧なAI生成物の中にあって、あえて自分だけの「蜆ラーメン」——すなわち、固有の失敗と偏愛を愛せるか。その覚悟こそが、あなたの知性を唯一無二のものなのです。the END
2026年2月14日 St. Valentine Day