宗教学者の釈徹宗しゃくてっしゅうさんの、遠藤周作さんの「深い河」への解釈に震えました
曰く
"真似事という考え方が面白いと思って、ある種演じてると言いましょうか
これも1つのね、宗教のあり方とか、形態のように思うんですよね。
我々お墓参りに行ったりとかするのも、言ってみたら本当にもう、真似事でっていうような
信じる宗教とは別に、行う宗教、感じる宗教みたいな、そういう宗教の道筋が、あるんじゃないなあという気がするんですよ"
ここから私は思いました
1、自分を見つめること
2、自分が気持ちいい付き合い方とは
3、人それぞれの付き合い方があっていい
宗教というと、なにか世界でも争いごとの種になってるとか、深く近寄っちゃいけないような気がしてしまう私ですが
でもお正月には神棚に手を合わせるし、熊手や矢尻も買ってたり、おみくじに一喜一憂したりしている私です
この矛盾なことに、何か一つの方向性を教えて頂いた気がしました
それは、自分の解釈でいいんだよということなのかなと
あくまでも大切なのは、自分の心に問い直した時の、自分としての解釈があるということなのだと
何かに強制されることではなく、自分で選んでいいのであるということは、とても気持ちを楽にさせていただいた気がしました
自分が気持ちの良い付き合い方は、真似事なんだけれども、行うことであり、自分なりに感じることなのであると
それで十分に宗教としての役割というモノを果たしてくれるのかもしれないなと
それほどに、宗教というものは、懐が深いモノであると
人それぞれの付き合い方があっていいんだよ、と言ってくれてるとしたら
それが違う違わないなどの争いも起こらず、みんなが自分なりの気持ちのいい形でいられる
そんなことが僕にとっては幸せかもなあと思ってしまいました
宗教は人類の最大のイノベーションなのかもしれませんが、その活用方法にも、新たなイノベーションがあってもいいんじゃないか
あいまいな形の付き合い方もいいんじゃないの
そんなことも思わせて頂きました
そんな話をしています^ ^
参考: 100分de名著 スペシャル番組「100分de宗教論」【放送日】2024年1月2日(火)夜10時~11時40分[Eテレ]https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/pEwB9LAbAN/bp/pay25KnRLm/
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