Listen

Description

批評家のベンジャミン・クリッツァーさんの言葉に、道徳のあり方について、考えさせられました

曰く

"道徳には「黄金律」が存在する。「自分が他人からしてもらいたいと思うような行為を、他人に対しておこなえ」という教訓と、その裏返しである「自分が他人からされたくないと思うような行為は、他人に対しておこなうな」という教訓は、ユダヤ教やキリスト教に儒教やマハーバーラタ(ヒンドゥー教の叙事詩)、そしてギリシャやローマの哲学など、古代から世界各国の伝統のなかで教えられてきたものだ。"

"シャーマーが論じるように、黄金律が古来から存在しているとしても、それをただしく実践できるだけの思考能力を持つ人は限られたままになっていたからだ。 これこそが、道徳的フリン効果である。"

"フリンやシャーマーは、現代の人々は「科学の眼鏡」をかけながら物事を考えている、と表現している。抽象的な思考は科学的思考の土台でもあり、因果関係に関する複雑な推論や確率や比率の概念をもちいた定量的な思考を可能にするものであるのだ。"

ここから私は思いました

1、マララさんの本とペン

2、問いを立てること

3、対話すること

道徳の黄金律が古来よりあるにも関わらず、何故なかなか守られないのか?ということに対する問いに、フリン効果という、一つの道筋を頂いた気がして、とても勉強になりました

現代においては、道徳的フリン効果によって、以前よりは、黄金律を理解して実践している人が増えているということがあるとしても

依然、"科学の眼鏡"を持つことができない環境に置かれている人がいる中で、持つ人と持たない人の間のギャップがあるために、ある世界における黄金率が、ある世界では理解されない、そんなことが起きるのかもしれないなと、改めて思いました

そこで、以前お話しした、マララ・ユスフザイさんが紛争地域から国連総会でお話しされた"一人の子ども、一人の先生、一本のペン、そして一冊の本が世界を変えることができます。"のことを思い出しました

黄金律の輪を自分たちの輪から、さらに広げていくことができるかどうか、その鍵を握っているのは、科学の眼鏡をかけられるかどうか、ということだとすると、それは、マララさんが言われる通り、始まりは、極論すれば、一本のペンと一冊の本なのかもしれない、と思いました

またそこから、自分を他のものに当てはめて考えるというような、抽象的な思考や推論や比喩を理解し使いこなせるということまで、プラクティスをしながら理解していくということをすることで、もしかしたら、黄金律を自分たちから他の人たちへ広げることができるのかもしれないなと思いました

そうすることによって、自分たちが考えていることがすべてなのか?というような問いを持てることにつながれば、黄金律をもしかしたら広げる、または、自分たちが思ってる黄金律自体を疑ってみる、みたいなとこまで繋がるかなと思いました

この問いを持つと言うことが、実はイノベーションにおいても大きな鍵でもあり、普段の当たり前のことに違和感を持ったり、他の人が違うのは何故なんだろうと思ったり、その考え方自体がイノベーションの種にも繋がる、そんな風にも思います

さらには、その問いを元に、さまざまな世界の人たちと対話をすることによって、その仮説検証をしていくことができれば、科学の眼鏡というものを手に入れることができるようになるのかもしれないなと

そして、それは、こちら側あちら側、双方に常日頃、アップデートしていくことで、常日頃問いを持ち続けて、対話をし続ける、そんなことが大切になってくるのかもしれないなと

そんなことを思いました

こちら側から見て明白な黄金律を何故破るのか?

ではなく

どこに双方の黄金率があるのか?

と言うことを、常に問い続けて、対話をつづける

それが黄金律であり、科学の眼鏡なのかもしれないなと思いました

一言で言うと

科学の眼鏡をいかにかけ続けられるかノベーション

そんなことを思いました^ ^

参考: 本:21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える 2021年12月10日初版 著者 ベンジャミン・クリッツァー  発行者 株式会社晶文社