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Description

Netflixオリジナルドラマのガンニバル見させて頂き、スリルと感動と、そして深く考えさせられました。

シーズン2のホームページより

“この村では、人が喰われるらしい―”

美しい村がひた隠しにしてきた恐ろしい噂。

その真相に警察官・阿川大悟が迫る中、村の秘密を守ろうとする後藤家がついに一線を越え、警官隊と衝突する。

“狂った村の真実を暴くには、狂うしかない―やつらよりも”

後藤家との狂乱の戦いに自ら身を投じていく大悟は、止められない狂気の渦の先にある衝撃の真相を突き止められるのか?

全ての鍵は、呪われた一族・後藤家の過去にあった…。"

ここから私は思いました

1、異質性への想像力

2、正義とは何か

3、アンラーニングの勇気

1、異質性への想像力

ある村における人肉食という衝撃的な習慣に出会ったときに、その異質性をどう捉えたらいいのか?ということに深く考えさせられました

文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが、『野生の思考』(1962年)の中で

「野蛮人とは、自分たちの慣れ親しんだ文化の外にあるものを、無意味であると見なす人々のことである」

と言われていますが、実はその村を外から眺めて、理解ができないと突き放すことこそ、実は我々自身が野蛮人である、ということを言われているのを思い出しました

世界中で起きている様々な紛争も、この各々における正義をどう理解し合うことができるかということに、帰結している気がします

レミゼラブルも、進撃の巨人も、良質なエンタメもこのテーマに深く切り込んでいることが多いのも、人類の大きな課題感がここにあるということなのだと思います

どんなに自分とは違い、常識が通用しないと思っても、異質なものや人を理解しようとする、対話をしようとする、そんなことが必要だなあと思いました

2、正義とは何か

各々の国における正義というのは、ある意味、同じ民族の間ではある程度共有されていて、そこから外れると制裁があるというものかと思いますが

世界や社会という単位での正義とは何なのか?ということについては、本当に難しい話になると思います

そのときに思い出すのは、マイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』(2010年)で言われている

「正義とは単に手続きの問題ではなく、目的や徳についての議論を避けてはならない」

というお話です。そしてさらには、マルクスガブリエルの倫理資本主義から

「倫理とは、単に『善くある』ことではなく、『他者の存在を前提とし、かつ説明責任を持って関わる』という、人間的関係性の実践なのである。」

ということを思うに、各々で、正義や倫理を語るのではなく、他者との関わりの中から、発見または、創発していくものであるということかと理解しました。

3、アンラーニングの勇気

ガンニバルのような、強烈な価値観の違いとの中に飛び込む際には、これまでの常識を一旦取っ払って臨む必要があるのかもしれないとも思いました

アンラーニングという言葉が一時期流行りましたが、まさに人を食ってはいけない、というかなり基本的なコモンセンスを一旦、アンラーニングすることができるのか?

その上で、対話をしながら、真のその意味を問うていく、またはそこに横たわる真の課題へ到達すべく、ネガティヴケイパビリティしまくっていくということが

イノベーターとしての、常識を破壊しながら、新たな常識を探し続ける、行動なのかもしれないなと

しかし、そこには、決して迎合することではなく、最終的には、相手の意も理解しながら、自らのパッションの源を見つめながら、仲間と共に、新たな大義を目指す

そんなことが大切なのかもしれないと改めて思いました

一言で言うならば

正義のトレードオフ・ノベーション

そんなことを思いました^^

参考:Netflixオリジナルドラマ ガンニバル■原作:『ガンニバル』二宮正明(日本文芸社刊)■監督:片山慎三、佐野隆英、大庭功睦■脚本:大江崇允、廣原暁■プロデューサー:山本晃久、半田健■アソシエイトプロデューサー:山本礼二■出演:柳楽優弥、笠松 将、吉岡里帆、他https://disneyplus.disney.co.jp/program/gannibal

動画で観たい方はこちら

https://youtu.be/5zlcSm_NFvA