哲学者の西田幾多郎さんの「哲学論文集第四補遺」からの一説に痺れました
曰く
"我々の自己は此の世界から生れ、此の世界に於て働き、此の世界へ死に行くのである。(略)"
"此故に我々の自己は、創造的世界の創造的要素として、歴史的世界を形成し行くのである。"
(哲学論文集第四補遺)
ここから私は思いました
1、世界内存在(仲間)
2、現実は創造の連続物
3、歴史的当事者意識
1、世界内存在(仲間)
西田さんが、此の世界、というのは、自分以外のたくさんの人たちを含んでいる仲間のいる世界なのかなと感じました。
ハイデガーさんが、『存在と時間』(1927年)の中で、「人間の存在とは、つねに世界のなかで、他者やモノと関わりながら存在することである」
と世界を表してるのと、とても呼応する夜雨に思えました。個としてある人は、世界の中にしか存在し得ない、それは、仲間と存在し得る、そんなことを感じさせて頂きました
2、現実は創造の連続物
世界は創造的世界であり、それを形作るのが我々という創造的要素であるとすると、世界は我々の一挙手一投足により、着実に新たな創造がされているのかなと思いました
A.N.ホワイトヘッドさんが『過程と実在』(1929年)の中で、「現実とは固定されたものではなく、無数の創造的過程の連続である」と言ってます
名前が残ろうと残るまいと、日々の暮らしの中で、誰かに何らかの価値を創造してあげた、という状態が、実は無数の創造物の連続となって、今の創造的世界を作ってると考えると
創造的世界を構成する我々は、誰もが創造的要素、つまり誰もがイノベーターとなりうる、そんな可能性を感じさせて頂きました
3、歴史的当事者意識
実は我々自身が歴史を作っている張本人だとは、なかなか気づきにくいことかと思いました。一握りの偉人と言われる人が歴史を作ってるだけで、名も知られぬ人たちは関係ないのだ、そんなことを思いがちなんじゃないかと思いました
カール・ヤスパースは『真理と実存』(1947年)の中で、「人間は歴史の中にあって、歴史を形作る責任を負う実存である」と言ってます
実は我々一人一人の行動の総和が今の歴史をつくってると考えると、我々自身が、それを一つ一つの行動としてきちんと意識していくことが、とても大切なことなように思えました
リクルートさんの圧倒的当事者意識ではないですが、歴史に関する圧倒的な当事者意識を持った行動が、普段の私にもとても必要かもしれない、そんなことを思いました
ということで一言で言うと
創造的世界の創造的要素ノベーション
参考: こころの時代 西田幾多郎 悲しみの“底”をみつめて NHK Eテレ 地デジ 2025/3/29
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