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実話の「日本で初めて教師による児童へのいじめが認定された体罰事件」を取り上げた映画「でっちあげ」に、真実とは何かについて深く考えさせられました

企画・ブロデュースの和佐野健一さん曰く

"この作品は誰かを糾弾するための映画ではありません。

むしろ実際には、登場人物たちは悪意などなく、それぞれの正義に従って行動していたのだと思います。

にもかかわらず、それらの正義が交錯した時、まったく異なる“真実”が浮かび上がる。バイアスのかかった情報が一力的に流布され、人々を思考停止に陥らせ、集団の空気に飲み込まれる。その怖さを豪雨の薮下の叫びに託しました。

そして何より恐ろしいのは、そうして生まれた真実”やその“結末”には、誰も興味を示さないという”現実”ですよね。"

ここから私は思いました

1、正義の多元性

2、合意への思考停止

3、事実の喪失

1、正義の多元性

この映画では、両方の立場からの映像が見事に対比されていて、どの物語が真実なのか?が観てる人たちに全くわからないまま、進展していく、とてもイノベーティブな作りだなあと感動しました

そこから思うのは、見る人の解釈によって、全く物語は変わると言うことです。ニーチェの「真実はない、あるのは解釈だ」と言う言葉の通り、ある意味、その人の観たいように世界は見るので、そんな恐ろしさを感じました。

しかしながら、裁判のような、誰かの人生を決めるような場面では、いかに真実か、何が正義なのかを、徹底的に話し合う必要があると言うことかと思いました

マイケル・サンデルさんの『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』(2010)で言われているように

「正義についての問いは、人間の生活に深く根ざしており、道徳的な相違が避けがたいことを示しています。」

つまり、道徳的な相違がある中での、あるいは多数派と少数派がいる中での、しかし、本当の真実は、どこにあるのかを追求し続けることが大切だけれども、本当に難しのだなあと痛感しました

2、合意への思考停止

会議の席などでも、「もう時間がないから、とりあえずその方向で」とか、「部長が言うならいいんじゃない」みたいな、いわゆる空気に流される的な、思考停止の場面に何度も遭遇してきました

また、人は、真偽は別として、わかりやすい説明、または、理解しやすい説明に、納得しやすいと言う面もありますし、物語として理解しやすい、または共感しやすい方向に、流されていく。そんなことがたくさんあると思います

アメリカの社会心理学者のアーヴィング・L・ジャニスさんは

「集団が一致を望むとき、その欲求が現実をゆがめ、失敗のリスクを高める。」

と言われています。つまり、誰もがそれを良いと言っている中で、異議を唱えることができるか?

または、ネガティヴケイパビリティにより、答えが出ないとしても、問い続けることができるか?それが問われていると思いました

3、事実の喪失

政治哲学者のハンナアーレントさんは

「虚偽が人々の心を動かすようになると、事実そのものが政治的な意味を失う。」

と言っています。

特に昨今では、SNSがある意味、観たい方向のものしか見せてくれなくなる、みたいなことになってくると、ますます、事実はなんなのか?と言うことよりも、自分がみたい方向のものに流れてしまうと言うことがあるのかもしれない、と思いました

イノベーターは、課題を見つけることがいちばん大切なことですが、その問いを出し続ける、ロジカル、ラテラル、クリティカルシンキングを常に発動し続ける、そんな姿勢が常に大切だなあと痛感しました

何が本当の「でっちあげ」なのか

見極めようとするネガティヴケイパビリティ

それが真のイノベーターの姿にも通じるなあと思いました

一言で言うと

でっちあげノベーション

そんなことをお話ししてます^ ^

参考:映画 でっちあげ 配給:東映  劇場公開日 2025年6月27日 監督 三池崇司 原作 福田ますみ 脚本 森ハヤシ 出演:綾野剛、柴咲コウなど https://eiga.com/movie/103667/

動画で観たい方はこちら

https://youtu.be/LQB-zr2DbxE