論語の有名な言葉に、改めて考えさせられました
"「憤せずんば啓せず。悱せずんば発せず。一隅を挙げて三隅を以て反さざれば、則ち復せざるなり。」
(ふんせずんば けいせず。ひせずんば はっせず。いちぐうをあげて さんぐうをもって かえさざれば、すなわち ふくせざるなり。)'.
"「心から知りたいという思いがなければ教えず、言いたくて仕方がないのに言葉にならないという様子がなければ教えを導かない。一を教えて三を自ら考えようとしない者には、それ以上教えることはしない。」"
ここから私は思いました
1、パッションの源が起点
2、問い直しと再構築
3、憤せずんば、悱せずんば、教えてはならない
さすが孔子さんは、お弟子さんにも厳しい姿勢を求められていたのだなあと思いました。私も、ワークショップやメンタリングをしていますが、この域に達するにはまだまだだよなあと思います。
1、パッションの源が起点
心から知りたいと思う気持ちがなければ、さらに心に葛藤がありまくって言い たく て 仕方 が ない ん だ けど 言葉 に なら ない 、それくらいの気持ちが溢れてないと、誰に相談するとかいう段階にはないと、そんなことなのかと思いました。
例えば恋愛のこと考えていただくとわかりやすいかもしれませんが、もう何とといっていいかわからない胸が痛すぎる、とにかく何かを伝えたい。どう伝えたらいいのか全くわからないけども胸が痛い、みたいなそんな状態で、なんらかの問題に恋する。
恋をするように、パッションの源に火がついてる、もうこれをやりたくてしょうがない、もしくはこれを解決したくてしょうがない。そういった課題感、違和感、情熱の源に出会ってるかどうか、それを孔子さんはみている、ということかと思いました。
2、問い直しと再構築
本当にそうなのかという問い、クリティカルシンキングで、自らの中にそれをなん度も繰り返しているか、ということも感じました。1を聞いて3を考えるものというのは、自らの仮説検証を少なくとも3回は回しているということにもつながるかと思います。
仮説検証という意味ではリ-ンスタートアップ、リ-ン&スケール、さらにロジカルシンキングを重ねても到達できないかもしれない、さらにラテラルシンキングでそもそも考え方が違うのかもしれない。でもわからない。このラテラル、ロジカル、ラテラル、クリティカル、このスリーシンキングを持ってしても真の課題が見つからない。
こう問い直してさらに再構築していくということが、とても大事なんだよってことを、言われてるのかなっていう風に思いました。
アメリカの哲学者・教育学者であるドナルド ショーン さん が 、以下のように言ってます。
「実践知と は 明確 な 答え が 存在 し ない 状況 で 問い直し と 再 構築 を 通じ て 意味 を 想像 する 能力 で ある。」
ダブルループの考え方を提唱されたショーンさんですが、本当にそうなのかと、そもそも考えが違うのでは、という深くリアルに考えるやり方として、とてもシナジーがあると思いました
さらには、ネガティブケイパビリティを発揮して、すぐにはわからないけれども、すぐには簡単な答えに飛びつかない、そういう姿勢が大切だと教えて頂いたきがしました。
3、憤せずんば、悱せずんば、教えてはならない
これは教える側、または、提案を受ける側の心持ちとしても、相手が果たして本当に、憤してるのか、悱してるか、心から問いを立て、言葉にできないほど葛藤しているのか、それを見極めることが求められると思いました
実際、ワークショップなどをやると、すぐに質問されて、答えを出さないと、不満足点数最高点、などになるケースもあるのですが笑、それでも、本当に良いワークショップとして良き学びのある機会を作りたいのであれば、それを甘んじて受けるくらいの覚悟が必要かと思いました
これは、上司と部下の関係、メンターと受ける人の関係、さらには、お客様と提案者の関係の中でも、実は、全て成り立つことが思います。
お互いに、憤してるか、悱してるか、そこから共感できる関係こそが、お互いに高め合える素敵な関係になるのだなあと、改めて勉強させて頂きました
ということで
何かをなしたい、始めたいという際には、パッションの源が起点だし、そして相談することも大事だが、その前に、問い直しと再構築を回しているか、そして本当に憤してるか、悱してるか、自らに問い直しながら進めていくことが大切で、さらにそれを受け取る側も、それを見極めた上での対応が必要、ということを教えて頂きました
一言で言うと
教えてはならないノベーション
そんなことを思いました^ ^
参考: 『論語』・述而篇 第七・八章 著者:孔子(紀元前551年~紀元前479年)