本日のプレイリスト:https://spoti.fi/3sFvtL4
(今回のメンバー:キョン、やすお、ソキウス)
文化的な「メインストリーム」は逃れることが出来ないものの一つ?
今回は、前回( https://spoti.fi/3qzfoqr )に引き続き「イントロクイズ出題者と所持音源量との関係」回の後編。
前編ではきちんと言及してはいなかった文化的な面での「濃淡」も考えていこうと、「趣味が良い」音楽や日本でのメインストリーム的な存在の楽曲といった例を用いながら考えていきます。
読み上げ形式のクイズでのそれと比較した、経済力という点でのイントロクイズのコストの高さについてどう考えているか尋ねられたキョンは(違法なものにも言及しながら)「節約」というキーワードを挙げました。
ここまでは経済的な要因について考えてきたので、「濃淡」の中には文化的な要因によるものもあるということがここで再度示されます。
その文化的な要因にあたるものとして、各自が得てきた文化的蓄積 ―要するに「文化資本」概念[Bourdieu 1979=1990]のこと― の度合いや、個々人の各音楽ジャンルへの関わり方 ―この関わり方と「文化資本」については今後配信予定の「音楽生活の調査」回で詳しく扱う予定― の違いなどがあることを確認。
そのような濃淡の中でもある特定の傾向の部分がイントロクイズでは主として取り扱われているのではないかというソキウスの考えを受けて、過去の回【参照:「語る言葉」回( https://spoti.fi/3A3uJlH ) 、「出題価値」回( https://spoti.fi/3lMtthD )】でも話題に挙がった「(日本での)メインストリーム」を例として用いながら考えていきます。
ここでソキウスは、キョンが強調していた「選択肢の幅を広げる」ことが結果的には「メインストリームを網羅すること」に繋がるだけなのではないかと、先ほど挙げた文化的な側面での濃淡という問題意識からあえて過激な言葉を用いて問題化。
【参照:「クラブミュージック」とイントロクイズの関係に触れたインスト曲回( https://spoti.fi/3sdUkqI )】
これに対してキョンは、自身にとっての「音ゲー(音楽ゲーム)」楽曲という存在から幅を広げることへの考えを、イントロクイズと音楽の聴き方の関係に対する姿勢から(自身が)興味を持った音楽とそれらを出題することへの考えを説明します。
この回答を受けてソキウスは、なぜメインストリームという概念をわざわざ取り挙げたかの理由として、(一般的なイントロクイズ行為が主に想定している個人が)日本社会から受ける社会的な影響を論点として明確にさせるためだと述べました。
【参照:NGワードトーク回( https://spoti.fi/3i1DnK1 )】
この説明にキョンは、各々にとって「取っ掛かりの無い」楽曲を「イントロクイズのために仕入れる」ことは「意味があることなのか」を考えさせられると吐露。
【参考:Spotifyでのランキングから海外音楽の受容の仕方を考えたシリーズ(#37( https://spoti.fi/3CwD0PV )、#43( https://spoti.fi/3GqBVvT ))での、「音のみ」または「近さ」[土橋 2019]を重要視する姿勢】
ソキウスは、選択肢の幅を広げることに「過度に妄信」した先にあるものは、メインストリームの網羅に結果的にはなるだろうという言い方でここまでの自身の意見をまとめます。
イントロクイズ的な音源所持という行為が持つ(ソキウス的視点での)経済的/文化的側面を踏まえてソキウスは、冒頭で設定した「べき」かどうかの倫理的問いを改めてやすおに投げかけます。
やすおは、メインストリームの結果的な網羅からは自身も「逃れられてない」ということ、さらに幅を広げるという回答が「所持音源量が少ない出題者は『善い』出題者になれないのか」ということを意味してしまうかもしれないこと、そしてその可能性を突き詰めていくと「『善い』出題者ってそもそも何だ」というメタ倫理的な問いも生まれるということをどうにか言語化します。
ここでソキウスは、今回の対話の内容も踏まえてキョンに「なぜ、大量の楽曲を自身の出題リストに入れておくのか」という今回の総括的な問いを投げかけます。
キョンは参加者の「総幸福度」が高くなるように候補を用意するのだと答えたので、自身にとって「取っ掛かりの無い」楽曲、つまり「自身が観測できていない範囲」の音楽がリストへ取り入れづらいという現状を考慮してもそのような答えになるのかをソキウスは尋ねます。
これに対してキョンは、収集するための時間は有限であることと、「ランダム」性を重視し「全部の分野を出し尽くす」ことに重点を置いていないことを先ほどの自身の回答の理由として挙げました。
最後にソキウスは今後の回への布石として、出題者回( https://spoti.fi/2STzBJQ )、そしてこのキョンの回答でも強調していた「参加者の反応をうかがう」スタイルを採るならば、出題者が観測できていない音楽を馴染み深いものとして経験している回答者が現れた場合、キョンはどのような行動をとるかを尋ねます。
キョンは、今後へ向けてそのような音楽を「抑えて」おき、出題の際には「エッセンス」として活用し、さらには自身もそれらを聴いていきたいので、そのような回答者に「逆に教えを請いたい」とのこと。
この回答にソキウスは、(1)読み上げクイズとイントロクイズでは、回答者→出題者の「矢印」が意味している性質が違うだろうということ【参照:競技クイズ回( https://spoti.fi/2SjYvSr )】、そして(2)クイズ自体が出題行為を経ない限り、出題「された」対象への「フィードバック」が出来ないということという、クイズ/イントロクイズ自体が持つであろう(今回のテーマと関連があると思われる)2つの要素を提示。
キョンは(2)の点に関しては「双方向」的な認識でしたが、ソキウスはこのフィードバックについてキョン的な視点とは違うところからを関連付けさせたいというのがありました。それはクイズの場の中だけで考えるのであれば「出されて『いない』ものへのフィードバックは(直接的には)出来ない」ということ。
「教えを請」うという行為は、一般的に考えればクイズの場に「出されていない」(かつ、その出題者が観測できていない)ものに対して「請う」はずなので、そのような行為は、イントロクイズ「である」必要性がどこにあるのか(=ただ単に出題者の立場から「教えを請いたい」のであれば、クイズという遊びの形式を用いる必要性が無い)というのがソキウスの考えです。
(「教えを請いたい」回答者が出題者側になればこの問題はある程度解決されるが、その場合はこの出題者側になった回答者が、元々「請いた」かった当初の出題者の願望を予め知っている状態でなければ元々の「教えを請」う行為は遂行されないし、さらにその行為の遂行もクイズの場「である」必要性が無い。)
この論点は今後の回でより精緻化させていきたいと考えています。
【本日の一曲】
毎回最後に1分以内で今紹介したい1曲を持ち回りで語ってもらう「本日の一曲」。
今回はソキウスが、キャラソン形式のカップリング史上(?)最も好きな曲を紹介。
「バンアパ」からも繋げてみた。
【今回のキーワード】
音源量/経済力(経済資本)/「趣味が良い」音楽/文化資本/(日本での)メインストリーム/メインストリームの選択肢の網羅/ウェブ的音楽生活/倫理/メタ倫理/「総幸福度」/反応をうかがう/出題された対象へのフィードバック/イントロクイズ「である」必要性/雀が原中学卓球部
【参考資料】
Bourdieu, Pierre, 1979, La distinction : Critique sociale du jugement, Paris: Minuit.(石井洋二郎訳, 1951, 『ディスタンクシオン――社会的判断力批判 I』藤原書店.)
土橋臣吾, 2019, 「ウェブ的音楽生活における洋楽の位置」南田勝也編『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか: 日本ポピュラー音楽の洋楽受容史』花伝社, 278-306.