Title:『愛はクリシュナから来たり』
1973年11月16日、インド、ニューデリーで行われた法話です。
ŚB 1.2.10
कामस्य नेन्द्रियप्रीतिर्लाभो जीवेत यावता ।
जीवस्य तत्त्वजिज्ञासा नार्थो यश्चेह कर्मभि: ॥ १० ॥
kāmasya nendriya-prītir
lābho jīveta yāvatā
jīvasya tattva-jijñāsā
nārtho yaś ceha karmabhiḥ
人生の願望を決して感覚満足に向けてはならない。人間とは絶対真理について問うためのものであるから、健全な生活、すなわち自己の維持だけを望むべきである。他のいかなるものも、仕事の目的にしてはならない。
ーー 法話から ーー
クリシュナというのは、愛する人という意味です。クリシュナという言葉そのままの意味は、すべてを魅了するという意味です。心をひかれる、魅了されるというのは愛情によって心を惹かれます。他のものではありません。ですから、その名前をクリシュナといいます。
この完璧なる愛、私達はみな、愛を求めています。青年も愛を求め、少年も愛を求めています。では、この愛とはどこからくるのでしょうか?それは、愛というのは、もともと、本来、クリシュナの中にあるものだ、これが、ヴェーダンタスートラの見解です。この愛するということ、これは、至高なる絶対真理から来ています。ただ、それが歪んだ形で反映されているのです。歪んだ形での反映、この物質世界では、私達が目にするものは全部、精神世界のものが歪んだ形で反映されているものです。
ですから、SBの中でも最初にこのように書かれています。すべてのものが歪んでいると。歪んだ形で影となっていると。例があげられています。ちょうどそれは、砂漠の中で水を見つけるようなものだと。この太陽の光によって水そっくりなまったく本物ではない写しが現れます。でもそこには水はないのです。ただ水の映像があるだけです。それと同様にこの物質界にあるものは、愛の反映だけ、愛を写した影となっているものだけです。実際に愛とは、この物質界にはありません。この物質世界にあると思われる愛というのは砂漠の中の蜃気楼です。ですから、本当の愛というものを求めるなら、この愛という言葉はすべてを魅了するお方、クリシュナにしか当てはまらないのです。
ですから、クリシュナ意識運動というのは、人々にこう言った幻覚な形ばかりの水だとか、愛だとか、心を惑わせてはいけないと、そういう事を教えるためにあるのです。現実は一つだけです。本当の現実まで来てください。本物ではない現実にはまらないでください。これが、バクティヨーガ、クリシュナ意識運動です。