Title:『物質世界はチャンスなり』
1972年8月26日、ロサンゼルスで行われた法話です。
ŚB 1.2.23
सत्त्वं रजस्तम इति प्रकृतेर्गुणास्तै-
र्युक्त: पर: पुरुष एक इहास्य धत्ते ।
स्थित्यादये हरिविरिञ्चिहरेति संज्ञा:
श्रेयांसि तत्र खलु सत्त्वतनोर्नृणां स्यु: ॥ २३ ॥
sattvaṁ rajas tama iti prakṛter guṇās tair
yuktaḥ paraḥ puruṣa eka ihāsya dhatte
sthity-ādaye hari-viriñci-hareti saṁjñāḥ
śreyāṁsi tatra khalu sattva-tanor nṛṇāṁ syuḥ
超越的な人格神は、激性、徳性、無知という物質自然の三様式と間接的に関わっておられ、ただ物質界の創造、維持、破壊のためだけに、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという3種類の質を帯びた姿を取られる。これら3つのうち、あらゆる人間は徳性の姿であるヴィシュヌから究極の恩恵を受けることができるのである。
ーー 法話から ーー
ここ物質世界では人々は皆、自分の要求を満たそうとしています。自分が中心です。ですから、人を食い物にしようとしたり、騙したり、脅したり、ありとあらゆることをして、自分が楽しもうとしている、それだけです。これが、物質世界と精神世界のちがいです。もし、自分が楽しみたい、自分の感覚を満たしたいと思うなら、それは、物質的です。もし、クリシュナを楽しませたい、クリシュナの感覚を満たしたいとお思うなら、それは精神的です。ここが、違いです。ですから、ここでやろうと、バイクンタでやろうと、やることは同じです。ですから、これは、チャンスなんです。感覚を満たそうとして、この物質界にやってきた、そうした制約された魂は機会を与えられているわけです。
もし、幸せになりたいなら、わたしに身をゆだねなさい、ここがポイントです。