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日本の産業であり、農家の副収入となった養蚕についてお話をします。

お蚕さんは命あるものから生まれてきて、それらが人間と共存し、人間の生活の中で様々な織物として自分たちの生活につながってきたという経過があります。

今回は、3冊の本を参考とします。

【着るため、生活のために織る】
古くから日本人は、蚕を「かいこ」と呼び、大切に育ててきました。蚕は絹糸の原料となる繭を作り出すため、養蚕は農家にとって重要な収入源の一つでした。

【手織りから生まれた衣服と女性の役割】
かつて和装が主流だった時代、多くの衣服は手作りで、その布地も家庭で守られていました。特に農家では、冬の農閑期と呼ばれる時期に、母屋の縁側などに機織り機を置き、女性たちが綿や生糸の布を織っていた様子が伺えます。

作られた布は、「内折り」「ジオーリー」「手前折り」などと呼ばれ、縞模様や無地のものが多いのが特徴でした。綿の布は野良仕事にも使われ、繭は上質なものは売却し、残りは糸にして自分たちの衣服に仕立てていました。
群馬県の山奥にある「荒船風穴(あらふねふうけつ、風の穴でふうけつ)」は、自然の岩穴です。冬の間は、雪に覆われ、その冷気が夏にも残って、岩のすき間から冷たい風が吹き出します。普通、蚕は、漢字で春の蚕と書いて、春蚕(はるご)と言って、春にしか繭を作りません。

もっと、繭を取れるようにするため、蚕の卵を、この風穴で冷やし、幼虫が卵から生まれる時期をずらして、年に数回、他の季節にも繭を作らせるようにした。群馬県には日本全国や外国からも「蚕の卵」が運ばれ、そのため、風穴の横にあった管理する家と、山の麓にあった事務所の間には、その頃はまだ珍しかった電話がしかれ、注文に応じ
ていました。風穴は、電気冷蔵庫のなかった時代に、蚕の卵を冷やして保存するための、自然の冷蔵庫だったのです。

養蚕方法の広まり
明治時代から昭和にかけての時代、日本中で数多くの農家が蚕を育てていた。群馬県伊勢崎市にある、田島弥平旧宅は蚕を飼って、蚕の卵(蚕の種と書いて、サンシュ)を取っていた家です。2 階建てで、1 階は人が住、2 階で蚕を飼いました。2 階は窓が多く、屋根には空気を取り入れるやぐらがあり、とても風通しの良い作りになっています。田島弥平は飼っていた、蚕が死ぬ等の多くの失敗を繰り返したうえで、風通しの良いところで蚕を育てる、「清涼育(清く涼しく育てる、セイリョウイク)」 という方法を見つけ出し、他の農家にも広めました。

質の良い生糸を作るためには、蚕にいい繭を作ってもらう必要がありました。そのため、蚕の上手な飼い方を人々に広めなくてはなりません。群馬県には、蚕の飼い方を伝える学校があった。学校の講師は、風通しの良さを使った方法と火を焚いて温める方法の良いところをとった、清潔な場所で温暖に育てる方法を編み出し、学校で生徒たちに教えた。この学校には、日本全国からや、台湾や朝鮮からも生徒が集まり、ここで学んだ優秀な生徒たちは地元に帰って、教室を開いて、蚕の生育方法を広く広めたそうです。

【戦後の復興と家庭での織物復活】
昭和の初めから第二次世界大戦にかけて、家庭での織物は徐々に姿を消していきます。しかし、戦後の和服不足と物不足の時代には、再び多くの家庭で家蚕を育て、良いものは売り、余った繭から糸を紡ぎ、機織りを復活させる動きが広まりました。
当時の女性たちが機織り機を操って糸を紡ぎ、織っている様子や、おばあさんが糸車を回して繭を紡いでいる光景が記録されています。織物ができることは、当時の女性にとって一人前の証であり、その作業風景は女性のたしなみとして大切にされていたことが伺えます。

おわりに
今回、結果的に曾祖父がどのように養蚕を教える先生になったのかを知ることが出来た。生前に祖母から聞くことが出来なかったことを知れたことや、自分のルーツに繋がる人の生き方を知れた。
お蚕さんは⾧い間、人間に飼いならされてきたため、幼虫は餌がなくてなっても、他の場所に行かず、成虫は羽があっても飛ぶことができない。人間が世話をしないと生きていけない生き物になった。
蚕の餌は、桑の葉です。蚕は成⾧して繭を作るようになるまで、たくさんの桑の葉を食べます。
お蚕さんは 1 日 3 食の桑を与えられる。幼少期のお蚕さんは 1 万頭で、1 日 800g の桑ですむが、
大きくなると1万頭は1日 80kg もの桑を食べつくす。
そのため、桑の葉を集めるや、お蚕さんに桑を食べさせるために桑畑を手入れなどが養蚕農家の大切な仕事です。昔から蚕は、「天の使いの虫」とされ、「お蚕さま」などと呼ばれて、大事にされてきました。