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今回は、織物と七夕について5つのお話をします。

テーマ1:七夕の起源と神話

テーマ2:巧奠(きこうでん)の風習

テーマ 3:古事記、日本書紀、万葉集での七夕前振り

テーマ 4:記紀、万葉集の七夕、言い換え

テーマ5:まとめ

七夕の起源と神話 七夕または中国語で乞巧節と呼ばれる祭りは、牛郎と織女のロマンチックな物語に基づいています。牛郎と機織り娘の物語は漢の時代から七夕祭りで祝われてきました。この有名な神話に関する最も古い文献は2600 年以上前にさかのぼり、『詩経』の詩の中で語られています。織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされ、『西京雑記』には、前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠の風習が記されていますが、織女については記されていません。

その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には 7 月 7 日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが 7 本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれています。

乞巧奠(きこうでん)の風習

周王朝初期の詩と言われる「詩経」に牽牛・織女が歌われ、作中で言う模様織り「報章 (ほうしょうき )」の絹機技術は、腕は確か でも、精神を集中しないと織れない難しい機織りであることをまた伝えています。

女性の運命は結婚して、夫に従い子を教えるしかなかったので、少なからぬ女性が牽牛と織女の伝説を信じ、織女を手本にしたいと思っていました。

よって毎年七姐誕(織女の誕生日)が来るたび、彼女たちは七姐(織女)を祭り、細やかなこころと器用な手先を得て、良縁が得られるように祈った。これが「乞巧」(器用になることを願う)という名称の由来です。 乞巧奠は、女性たちが織女にならい、針仕事の技術を祈る風習です。彼女たちは七孔針を用い、五色の糸を通して織女の技術を身につけることを願いました。この風習は宋元時代に特に盛んになり、乞巧市と呼ばれる市場が開かれました。

日本にも、神話の時代から中国の「七夕物語 しちせきものがたり」に似た「棚機物語 たなばたものがたり 」があったようです。 推古八年(西暦 600 年)から宝亀六年(775 年)の間に行われた十五回に及ぶ遣隋使・遣 唐使などの交流のなかで、棚機は中国の影響を受けて現在の姿へ推移してきたようです。 幸なことに、奈良時代の万葉集(759 年)は万葉がなという漢字の表音かな遣いで示され、 平安時代(913 年)の古今和歌集 こきんわかしゅう や鎌倉時代(1205 年)の新古今和歌集はひらがな表示で すので、七夕歌が棚機の歌に及ぼした跡をみることができそうです。日本では、七夕は織女と牽牛の物語を基にした独自の風習が発展しました。

古事記と万葉集古事記の記述では 「たなばた」の名前が初めて見られるのは、 天照大神 が天岩戸幽居[あまのいわどゆうきょ] のとき、天棚機姫神[あめのたなばたひめのかみ] が「和衣[にぎたえ 」という柔らかく美しい絹づくりの神衣を織り奉った項の所です。

織女と彦星

日本では古事記・日本書紀に「天なるや弟たなばた」の表現がみられ、機織り女性のところを訪れる 男性とが契りを結ぶ古代伝説があり、この上に中国 の七夕伝説は根を下ろしたといわれています。奈良時代の万葉集には、遣唐使として入唐し,707 年ころ帰朝した山上億良 の「七夕の歌 十二首」をはじめ山部赤人 ・柿本人麻呂 など多くの 人々による百三十二首ほどの棚機の歌がみえます。また万葉がなは「織女 しょくじょ 」を「たなばたつめ」、「牽牛 けんぎゅう 」 を「ひこぼし」と読ませています。

新古今和歌集 -「たなばた」表示は「七夕」に統一-。七夕伝説は民間文化の一部として、時代によって変化している。中国では七夕の漢詩、散文、小説、戯曲などが多々ある。日本でも、基本的に漢詩、和歌、物語がある。七夕伝説はこれらの文学を通じて、深く伝播している。そして、和歌にしても、物語にしても、その時代の七夕文化の表現だけでなく、民俗信仰や社会思想も反映されている。二千年余り前に伝えられた伝説として、七夕は日中両国の文化の特徴を表現している。文化は単一なもの、独立した現象ではなく、その表現の形は多種多様であり、社会の変容を理解するための素材である

今回の参考書籍を紹介します。

1:蚕糸(さんし)史話序説

編者

元蚕糸科学研究所客員研究員 嶋崎昭典 (しまざき あきのり)

蚕糸科学研究所長 清水重人 (しみず しげと)

一般財団法人大日本蚕糸会蚕糸科学研究所(出版) 平成 29 年

2:楊静芳(チョウセイイ). "中日七夕伝説における天の川の生成に関する比較研究." 学校教

育学研究論集 25 (2012): 69-84.