27歳で3社転職!?製薬業界を渡り歩いた男の人生物語。
1社目:外資系製薬会社(2年半)
2社目:内科系の会社(2年半)
3社目:抗がん剤の世界へ(8年間)
「どうやって、余命数ヶ月の父親の大腸がんの治療をしてあげたらいいかわからない」
父の主治医から発せられたこの一言が、Yoshiさんの人生を180度変え、転職にも影響しています。
がんについて何も知らなかった自分。
父親を救えない現実と向き合った時、新しい道を切り開いていきます。
1.野球とラジコンと機械いじりの小学時代
大阪・阿倍野の生まれ。自営業で、両親が飲食店を営み、子どもの頃はお金のかからない遊びが中心。小さい頃からよくやっていたのは、近所での野球。
小学校の高学年くらいになると、「自分で組み立てるタイプのラジコン」。ネジを回したり、パーツをつなげたりするのが楽しくて、時間を忘れるほど没頭。
小さい頃から「機械いじり」が好きな少年でした。
2. 卓球漬けの中学時代
小学生の頃、少年野球チームに入ってはいたものの、中学では一転して卓球部に入ることになります。
その理由は、中学の野球部に入るには「坊主頭」にしなければならないというルールが単純に”嫌”。
また卓球部には、ちょっと面白い特徴があり、顧問の先生が「卓球をまったく知らない人」だったということ。最初の頃はまだ形だけの指導が、2年生になる頃には「もう自分たちで練習メニュー決めていいよ」と、完全に放任状態に。
これが、Yoshiさんにはすごく合っていたんです。
そして中学1〜2年生の頃はかなり卓球に熱中して、早朝練習と放課後の練習。さらに夜8時半ごろから地元の卓球クラブに通うという、卓球漬けの生活。
その結果、大阪の大会でベスト8に入る実力をつけることになります。
別に卓球が最初から好きだったわけじゃない。でも、やっているうちに「頑張る」ってこういうことかもしれない、そんな気持ちになっていった中学時代。
3. 自分たちで考える卓球練習が楽しかった
卓球の練習方法を探すために、卓球の本を読んだり、技術解説を調べたりして、「こんな練習やってみよう」と毎日のように話し合って決めていた。
形式にとらわれず、工夫しながら取り組むのがすごく楽しい。
Yoshiさんは2年生のときには部長を任され、自分たちで練習を組み立てる自由さのなかで、一生懸命に卓球と向き合っていました。そうやって試行錯誤しながらやっていたことが、夢中になれた理由のひとつだったのかもしれません。
今振り返ると、この時から
「どうすればもっと良くなるか」
「同じやり方じゃなくて、他の方法はないか」と
工夫するのが好きだった少年。
卓球部という枠の中で、自由に考え、仲間と工夫して動いていたあの時間は、Yoshiさんの「らしさ」が自然と出ていた瞬間だったのかもしれません。
4. アメンボが教えてくれた進路のヒント
高校時代、最初は文系を選ぼうかと思いながら、最終的には理系を専攻。
理由はシンプル。
昔から「メカニズム」や「仕組み」を知るのが好きだった。
当時は、ちょうどバイオテクノロジーが注目され始め、生物工学などの学科が次々と新設。「生き物の仕組みを技術に応用する」という分野に興味を持ちます。
進路を決めるにあたっていろいろな大学を調べている時、ある学科の紹介文に目が止まりました。
「アメンボが水の上を歩ける仕組みを人間の技術に応用する研究」
「えっ、それって本当にやってるの?」と思いましたが、読んでいくと納得。
アメンボの足には細かい毛があって、撥水性を持っている。だから水の表面張力をうまく使って浮かぶように歩ける。――そんな自然の仕組みを、工学的に応用する研究があったんです。
その紹介を見たとき、「これは面白い!」と心から思いました。
それがきっかけで、生物の仕組みを研究する大学の工学系学部を目指すようになりました。
5. メカニズムが気になる性格
Yoshiさんは何かを「作る」よりも、
「どう動いてるのか」
「中身がどうなってるのか」を考えるのが好き。
たとえば、ラジコンを作るときも、動かすのが楽しいというより、「どんな構造で動いてるのか」が気になって仕方なかった。
この「メカニズムを知りたい」という好奇心によって、目に見えている物事の表面だけじゃなくて、「その裏にある構造はどうなっているのか?」と、つい掘り下げたくなるんです。
6. ジェットコースターの仕組みが気になった高校時代
高校生になり、女の子と遊園地に。もちろんジェットコースターにも乗って、「キャーキャー」と盛り上がる、あの感じ。
でも、ジェットコースターから降りたあとに感想を聞かれて、Yoshiさんが答えたのは、
「これ、どうやって坂を登ってるんやろうな?どんな仕組みなんやろ?」
女の子が期待していたのは、「怖かったね」「楽しかったね」といった共感や感情の共有。でも、Yoshiさんは完全に構造やメカニズムのほうに意識が向いていて……正直、ちょっと気まずい雰囲気になりました(笑)。
7.テニスサークルの部長の大学時代
理系としては珍しく、大学ではテニスサークルの部長として、ほぼ毎回参加。登録メンバーは200〜300人。夏の合宿では観光バス3台で移動するほどの大規模サークル。部長としての経験は、理系の勉強とは違った学びを与えてくれた貴重な時間でした。
8. 理系から製薬会社MRへ:自分に合った道を見つけるまで
理系の学生だったため、教授から大手食品会社など研究所への推薦の話がありました。しかし、研究室でずっと実験を続ける自分の姿が想像できず、早々に研究職の道は諦めて一般の就職活動を行うことに。
最終的に選んだのは、製薬会社のMR(医薬情報担当者)。
基本的には薬の営業という仕事内容で、理系の知識を活かしながらも、人とのコミュニケーションが中心となる職種。研究室にこもるのではなく、外に出て働ける環境に魅力を感じたのです。
9.キャリアのスタート、1社目:アメリカ系大手製薬会社
新卒で入社したアメリカの大手製薬会社では、早々にそれなりの成績を上げることができましたが、この会社には大きな課題がありました。
製薬業界では「新薬」の存在が営業のやりがいにおいても非常に重要と考える傾向があります。新しい薬は、医師からの需要も高いため、貢献感も高く、多くのMRが新薬を扱いたいと考えています。
ところが、この会社では、なかなか画期的な新薬が出てこない。細かい改良品のような市場価値がそれほど高くない薬がパラパラと出る程度で、営業としてのやりがいを感じにくい状況でした。
10. 転職、2社目: 内資系製薬会社
25歳頃、同じエリアを担当していた内資系製薬会社の先輩MRから「うちの会社で画期的な新薬が出るから、転職しないか」という誘いがありました。
この会社では、当時としては画期的な骨粗鬆症の治療薬を扱うことになりました。骨折リスクを減らす確かなエビデンス(科学的根拠)があり、従来の治療とは異なるアプローチの薬で、非常にやりがいを感じたのです。
新薬の発売に携わり成功をおさめますが、在籍期間は2年半で、薬の発売から1年半という短い期間でした。
11. 人生を変えた出来事
転職を考え直すきっかけとなったのは、父親の大腸がん発症でした。
当時、名古屋でMRとして働いていましたが、大阪の実家で治療を受ける父に呼ばれ、病院での説明に同席。製薬会社にいるとはいえ、がん領域の薬は扱ったことがなく、専門知識はない。それでも父からは「薬のことはお前が分かるだろう」と期待されていました。
しかしながら、父の病気がかなり進行した状態で発見され、余命が数ヶ月という厳しい現実。この経験が、その後のキャリアに大きな影響を与えることになったのです。
12. 転職、3社目: 製薬会社で抗がん剤担当
担当していた骨粗鬆症治療薬の競合企業からヘッドハンティングを受けました。私が発売した薬を、彼らが新たに発売する骨粗鬆症治療薬に切り替えてほしいというもので、当然断りました。ただ、その会社には抗がん剤の部署があり、父のことをきっかけに抗がん剤の仕事に興味を持っていました。ヘッドハンティング会社に抗がん剤の担当としてなら話を聞いてみたいと伝えたところ、そのまま選考に進み、未経験ながらも抗がん剤担当MRとして3社目となる転職をすることになったのです。
3社目では8年間勤務し、34歳まで製薬会社で抗がん剤領域の仕事を担当。
入社時(27歳): 営業として入社
2年後: マーケティング部門に異動
3年後: プロダクトマネージャーに
プロダクトマネージャーとは、マーケティング部で薬の販売戦略を考える製薬会社の中でも花形部門です。そこからはずっとマーケティング業務に従事し、基本的に抗がん剤領域の製品をマーケティングとして担当していました。
13. 転機となった出来事
35歳直前に大きな転機が訪れました。自分が担当していた製品が「販売移管」となったのです。これは、自分の会社ではなく別のメーカーに販売をしてもらう。つまり自分では売らずに販売を別の会社にやってもらうという本社の決定でした。
自分が担当していた商品を別の会社に渡すことになり、当然自分が売る薬がなくなってしまいました。
幸い、会社は3つほどの選択肢を用意してくれました:
抗がん剤のマーケティング部で製品の担当をする
他の領域のマーケティングで新薬の担当をする
販売移管先の会社との窓口業務を行う
全て悪い話ではありませんでしたが、結果的に選んだのは4つ目の選択肢――会社を辞めるという選択でした。