岡山県倉敷市を愛し、世界に発信できる街づくりを実践した実業家がいます。
大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう)。
もともと父が倉敷の大地主だったこともあり、その財力をもとに教育、医療、福祉など、さまざまな分野で次世代につなぐ功績を残した孫三郎ですが、彼が今わの際で最も気に病んだのは、大原美術館のことでした。
1940年代、時代は軍国化を極め、西洋の絵画を観にくるひとなど、ほとんどいなかったのです。
それでも彼は、倉敷の地に、世界に負けない美術館を作り、守り続けることをやめませんでした。
「わしの眼は、10年先が見える」
というのが口癖だった孫三郎。
「おそらく10年後も、この美術館には、ひとがそれほど来ないだろう。だがなあ、ここを閉じてはいけない。文化の窓を閉じたら、心が死ぬ」。
戦後を待たずして、彼は62年の生涯を閉じますが、言葉通り、大原美術館の客足はいっこうに増えませんでした。
しかし、奇跡は起こるのです。
昭和7年、満州事変のために来日したリットン調査団の団員たちは、大原美術館を訪れ、そこに展示してあった名画に驚愕します。
「エル・グレコが、まさか、ここにあるとは…」
自国に戻った調査団は、すぐに報告書をまとめました。
「ニッポンの地方都市、クラシキに爆撃してはいけない。あそこには、世界的な美術品がある」
おかげで、倉敷の街は爆撃目標からはずされたと言われています。
また、孫三郎は、倉敷の地に軍隊の師団設営を拒否。
当時としては命を落としかねない一大決心でした。
「わしの眼が黒いうちは、倉敷に軍隊を置かない!」
連帯配置を免れたことも、倉敷の戦火が最小限で済んだ理由のひとつにあげられています。
常に先を見て、目の前のひとの幸せを守る。
明治・大正・昭和を駆け抜けた風雲児、大原孫三郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?