生涯、野に咲く花を愛し、描き続けた洋画家がいます。
深沢紅子(ふかざわ・こうこ)。
深沢は、堀辰雄や立原道造など、著名な作家の本の装幀や、童話の挿絵を手がけました。
そして晩年は、絵画を通した児童教育にも積極的に取り組み、彼女の優しい目線は、現代にも継承されています。
1925年、大正14年、紅子は、『花』『台の上の花』という2つの作品で、二科展に入選します。
当時、女性の入選は珍しく、女流画家第一号誕生!と、大きな話題となりました。
生まれ故郷、岩手県盛岡市にある、「深沢紅子 野の花美術館」。
中津川のほとりに建つ、小さな美術館には、紅子と、夫で画家の深沢省三(ふかざわ・しょうぞう)の作品が展示されています。
「深沢紅子 野の花美術館」は、長野県の軽井沢にもあります。
紅子は、作家・堀辰雄と親しく、夏の間だけ、旧軽井沢にある、彼の別荘を借りていました。
およそ20年に渡って軽井沢を訪れ、多くの作家と親交を深め、軽井沢の湖畔に咲く、野の花を描いたのです。
「スワン・レイク」と呼ばれた、雲場池の周りを散歩するのが好きでした。
時に、川端康成とも、湖畔を散策しました。
寡黙な川端が、ふと立ち止まり、「これは、堀辰雄くんが好きだった樹木です」と言えば、紅子は、ささっとその樹をスケッチしたといいます。
作家や詩人たちとの交流は、紅子の絵に、文学の香りをまぶし、一輪の花に、命の光と影を投影したのです。
なぜ、彼女が野の花を描くようになったのか。
10歳のとき、野に咲いていたカタクリの花が忘れられないと後に語っています。
彼女が好んだのは、強いものより、弱いもの。
華やかなものより、落ち着いたもの。
にぎやかなものより、静かなもの。
カタクリは、ひっそりと、でもたくましく咲き、紅子に、思い通りにならないこの世の生き方を教えてくれたのです。
日本の女流画家の草分け、深沢紅子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?