日本は長い間、外の世界から神秘的な文明として認識されてきました。それは、制度的権力によって形作られた硬直した二元論的な西洋的視座を通して見られることで、矛盾や逆説に満ちた存在として映ってきたからです。
しかし、そのような認識は、大和の地に生きる人々の実感とは、まったくかけ離れています。
日本の宇宙観は、万物という根本原理の上に成り立っています。それは、存在の総体であり、あらゆるものに命が宿るという理解です。
日本の形而上学的思想において、万物とは、分離した個別の対象の集合ではありません。
万物とは、無数のかたちを通して自己を表現する、ひとつの連続した生きた現実そのものです。
この決定的な違いこそが、西洋的な二元論的枠組みがしばしば見落としてきた点です。
確立された日本の形而上学において、万物は生きており、相互に結びつき、自己組織化し、階層を持たない存在です。
人間が創造の頂点に座ることはありません。ただひとつの生命が、多様な姿として現れているだけなのです。
日本の土着的信仰の視点から見れば、万物とは迷信なきアニミズムを意味します。
神道においては、生きているものと生きていないものの間に、厳密な境界は存在しません。
山、川、風、道具、動物、祖先、さらには思想に至るまで、すべてが氣を宿しています。
神は、自然の上に立つ神々ではありません。
神とは、自然の内側における表現そのものです。
これは、すべてのものが人格を持つという意味ではありません。すべてのものが存在に参与しているということを意味します。
道教的宇宙観は、この理解をさらに補強します。宇宙は何かによって創られたのではなく、宇宙そのものがプロセスであり、すべての現象は同一の源から立ち現れます。
禅仏教は、この真理を徹底した明晰さで語ります。色即是空、空即是色とは、現実を否定する言葉ではなく、分離を否定する言葉です。
万物には独立した存在はありません。しかし、関係性に満ちた存在として、豊かに在ります。
何ものも単独では存在せず、すべては、すべてを通して存在しています。
一方で、古い一神教的体系は、創造から切り離された創造主を前提とし、神 → 人間 → 動物 → 物質という階層構造のもとで、権威が上から下へと流れます。
万物は、この構造を完全に解体します。
もしすべてが生き、相互に結ばれているのであれば、本質的に何ものも、何ものかの上に立つことはありません。
これは混沌ではありません。存在の平衡です。
人間は創造の支配者ではありません。
権威は中央集権化できません。
現実は教義によって制御できるものではありません。
万物が脅かすのは霊性ではありません。それは制度的権力です。
だからこそ、組織宗教は、無機的な自然、支配的な人間、そして外在する神を主張せざるを得ないのです。それらは、真の霊性とは正反対の立場です。
世俗主義もまた万物を否定します。物質は死んでおり、意識は偶然の産物であり、意味は人間だけが生み出すものだと主張します。
この見方もまた、同様に貧困です。
それは神的階層を知的階層に置き換え認知能力だけを理由に人間を頂点に据えます。
この枠組みにおいて、生命には本質的な統一性がありません。
世俗主義は、神なき別の階層構造にすぎません。
両者が共有している前提はひとつです。それは、人間が宇宙から切り離された存在であるという考えです。
万物は、この前提を根本から否定します。
人間は、いかなる連鎖の頂点にもいません。
食物連鎖の頂点ですらありません。
人間は生態系に依存し、生態系は微生物に依存し、微生物は惑星環境に依存し、惑星環境は宇宙的秩序に依存しています。
そこに「頂点」はなく、あるのは関係だけです。
この真理が忘れられたとき、歪みが生まれます。
万物は信仰ではありません。
それは体験です。
それは教義や権威によってではなく、共鳴によって知られます。
思考によって万物に至ることはできません。その振動は、直接に感じられます。
日本思想が万物一つと言うとき、それは、ひとつの場、ひとつの動き、ひとつの存在が、無限に表現されていることを指しています。
個別性は存在します。しかしそれは、分離ではなく表現として在ります。
だからこそ、日本人の精神においては、支配よりも調和が重んじられるのです。
制御よりも、均衡が重要なのです。
信仰よりも、理解が大切にされるのです。
万物は、分断された意識の時代に対する処方箋です。
それは、偽りの階層を溶かし、関係的理解を回復させます。
私たちは、死んだ宇宙に浮かぶ孤立した意識ではありません。
私たちは、生きた全体の中に現れた、生きた表現なのです。そして、それを思い出したとき、すべてが変わります。