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どうも日本人を長くやってると、4月に新年度って不思議に感じなくなってました。
保育園・幼稚園あたりから始まって、大学に至るまでの学校の学期の始まりが4月。
それにつられてでしょうか、多くの会社に至るまでが4月に一斉に新人をまとめて入社させる仕組みがまだ残ってます。

牧歌的な時代だったら良かったと思いますが、時代の進み方がわけわからん程速くなったここ数年、もうそろそろこの年度でモノ考える仕組み、限界超えてるんじゃないかな?という肌感覚を私は持ってますが、皆さんいかが?

例えば教育。義務教育は全世界的に似たような仕組みかもしれませんが、子供が決まった「年齢」になったら、なんか市役所あたりから紙の葉書がペロッと郵送で届いて学校に入りゃんせという具合。
子供が小学校に入る頃は、1年という秒数は生物として生きてる秒数に対して比率が大きいでしょうから、こう画一的に学校はいりなさいはまぁまぁ許したとして、今の時代子供がやりたいことや持ってる能力を最大に伸ばしてあげるための科学的手法なんか、たくさんありますよね?

全部の教科を一様に履修させるのって、ほんとかわいそうだと本能的に思います。得意なこと伸ばしたほうが良いですよ。
基礎的な知識を覚えさせるのは、最高の授業をする日本の先生の上位10位くらいまでを動画リストしておけばいいでしょうし、AIの台頭で、そもそも覚えるとか考えるとかより、違う能力が人間に求められるようになってきたわけで、ほんとに教育って必要?的な議論も進むでしょうね。

ともかく人類、各個人として生身の人間として生まれ出てきて、死ぬまでの間のハッピーな秒数、これが長いほうが良いに決まってると思う派です。
額に汗して働くのが趣味なら、楽しいのでオッケー。でもそれを強要する人や、そうさせるような仕組みを作る人からは、みんな離れていく世の中が良いでしょう。まぁ資本主義社会では貧富の差ができるので、限界アリでしょうけど。

で、なんでそんな事思うかというと、ChatGPTが出た今だからではなく、昔っから私自身がそれを体感してきたからなんです。
教科の得意不得意が極端。興味あるもの無いものが極端。授業受けたいものとイヤなもの極端。そんなヤツでもそこそこ及第点を録るための教育の、そして社会のシステムの上を歩いてきました。いやーー、我慢せずに好きなことを勉強できる世界に飛び出しちゃえばよかったなー。いまごろ言うは易しですけどね。

学校を卒業して社会にでるという表現もすごく日本的な偏りを感じます。
社会に出るというのは、多くがサラリーマンになることを指し、その世界の長年のルールに真面目に石の上にン十年巻き込まれることが良しとされていたわけです。
そんなシステムだと、勉強を継続できるモチベーションが生まれにくいし、何のために働いて生きてるのかの思考停止でも、いくばくかの歯車引き止め料としての給料が出るだけです。おもろくないですよね。

新卒一括採用の同期の仲間と、会社の中で同期の絆を深めるなんてのは結構面白がれる体験ではありますが、中途採用という差別用語でモノを片付けるような文化にも直結しています。期中採用なんて用語にすり替えたりしてましたが、いづれにせよ正規と亜流みたいな変な対立構造が可視化されやすくなります。

そんなことで私が思うのは、学校でも会社でも何でも、ある目的をもった団体に1年1回設けられている区切りのタイミングは、最大1年365回にしたらいいのに、ということです。

誰でもいつでも何やりたくてもOKな仕組みを国じゅう・世界じゅうに科学的に作ってしまって、組織のチカラを使っても使わなくても自分の満足度が高い方をいつでも選べる世界が良いんじゃないかと。

あれ?これってDAOが近い感じですかねぇ?
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