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Tapasvini Devi Dasi

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A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-03-201h 35A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 91 (バーガヴァタム1-5-12.13)Title:『不必要なもの』 1969年6月16日、New Vrindavanで行われた法話です。 ŚB 1.5.12 नैष्कर्म्यमप्यच्युतभाववर्जितं न शोभते ज्ञानमलं निरञ्जनम् । कुत: पुन: शश्वदभद्रमीश्वरे न चार्पितं कर्म यदप्यकारणम् ॥ १२ ॥ naiṣkarmyam apy acyuta-bhāva-varjitaṁ na śobhate jñānam alaṁ nirañjanam kutaḥ punaḥ śaśvad abhadram īśvare na cārpitaṁ karma yad apy akāraṇam 自己の悟りに関する知識はたとえ物質的なものとの関連性が皆無であったとしても、絶対的な存在(神)という概念がなければ良いとは思えません。ならば、最初から苦痛を伴い一時的でしかない果報的な活動など、神へ献身的に仕えるために活用されないなら、いったい何のためにあるのでしょうか? ŚB 1.5.13 अथो महाभाग भवानमोघद‍ृक् शुचिश्रवा: सत्यरतो धृतव्रत: । उरुक्रमस्याखिलबन्धमुक्तये समाधिनानुस्मर तद्विचेष्टितम् ॥ १३ ॥ atho mahā-bhāga bhavān amogha-dṛk śuci-śravāḥ satya-rato dhṛta-vrataḥ urukramasyākhila-bandha-muktaye samādhinānusmara tad-viceṣṭitam ヴィヤーサデーヴァよ、あなたの見解は完璧です。あなたの名声には傷ひとつありません。堅い誓いを立てたあなたは真実の真っただ中にいます。ですからあなたは一般大衆をあらゆる物質的束縛から解放しようと、放心状態で主の遊戯への想いに耽ることができるのです。
2022-03-151h 45A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-03-132h 15A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-03-0938 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 88 (バーガヴァタム1-5-9~11)Title:『まずあなたの魂を守りなさい』 1969年6月6日、ロサンゼルスで行われた法話です。 ŚB 1.5.9 यथा धर्मादयश्चार्था मुनिवर्यानुकीर्तिता: । न तथा वासुदेवस्य महिमा ह्यनुवर्णित: ॥ ९ ॥ yathā dharmādayaś cārthā muni-varyānukīrtitāḥ na tathā vāsudevasya mahimā hy anuvarṇitaḥ 偉大な聖者よ、あなたは宗教的な行為から始まる4つの原則については非常に広範囲に説明してきましたが、至高人格神ヴァースデーヴァの栄光については述べていません。 ŚB 1.5.10 न यद्वचश्चित्रपदं हरेर्यशो जगत्पवित्रं प्रगृणीत कर्हिचित् । तद्वायसं तीर्थमुशन्ति मानसा न यत्र हंसा निरमन्त्युशिक्क्षया: ॥ १० ॥ na yad vacaś citra-padaṁ harer yaśo jagat-pavitraṁ pragṛṇīta karhicit tad vāyasaṁ tīrtham uśanti mānasā na yatra haṁsā niramanty uśik-kṣayāḥ おひとりで全宇宙の大気を神聖化することのできる主の栄光を語らない言葉は、カラスの巡礼地のようだと聖人たちは考えます。完璧な人たちは超越的な居住地に住んでいるため、そのような場所にいかなる喜びも見いだしません。 ŚB 1.5.11 तद्वाग्विसर्गो जनताघविप्लवो यस्मिन् प्रतिश्लोकमबद्धवत्यपि । नामान्यनन्तस्य यशोऽङ्कितानि यत् श‍ृण्वन्ति गायन्ति गृणन्ति साधव: ॥ ११ ॥ tad-vāg-visargo janatāgha-viplavo yasmin prati-ślokam abaddhavaty api nāmāny anantasya yaśo ’ṅkitāni yat śṛṇvanti gāyanti gṛṇanti sādhavaḥ 一方、無限なる至高主の御名、名声、お姿、娯楽などの超越的な栄光の記述に満ちている文献は、この世界の誤った文明に生きる不敬な生活に革命を起こそうとする超越的な言葉に満ちた、まったく別の創造物です。そのような超越的文献はたとえ構成が不完全であったとしても、清廉潔白な浄化された人々は聞き、歌い、受け入れます。
2022-03-021h 48A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-02-201h 43A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-02-151h 33A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-02-071h 25A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-02-0253 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-01-241h 01A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-01-201h 07A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-01-1557 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-01-1157 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-01-0454 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2022-01-0149 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-12-2948 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-12-2839 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-12-2659 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-12-1844 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-12-1352 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-12-0552 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-11-2828 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-11-2648 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-11-1455 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-11-0435 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-10-281h 01A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-10-1141 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-10-041h 00A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 65 (バーガヴァタム1-3-1~3)Title:『God Has No Body Like Ours』 1968年3月28日、サンフランシスコで行われた法話です。 ŚB 1.3.1 सूत उवाच जगृहे पौरुषं रूपं भगवान्महदादिभि: । सम्भूतं षोडशकलमादौ लोकसिसृक्षया ॥ १ ॥ sūta uvāca jagṛhe pauruṣaṁ rūpaṁ bhagavān mahad-ādibhiḥ sambhūtaṁ ṣoḍaśa-kalam ādau loka-sisṛkṣayā スータは言った:創造の初めに、主はまずプルシャ化身という宇宙体に自らを拡張させ、物質創造に必要なあらゆる要素を作った。このように物質を機能させる16の原則が最初に創造された。これが物質宇宙創造の目的であった。 ŚB 1.3.2 यस्याम्भसि शयानस्य योगनिद्रां वितन्वत: । नाभिह्रदाम्बुजादासीद्ब्रह्मा विश्वसृजां पति: ॥ २ ॥ yasyāmbhasi śayānasya yoga-nidrāṁ vitanvataḥ nābhi-hradāmbujād āsīd brahmā viśva-sṛjāṁ patiḥ プルシャの一部が宇宙の水の中に横たわり、そのお体の臍(へそ)の池から蓮華の茎が伸び、その花の最上部に宇宙の全設計者の長なるブラフマーが現れる。 ŚB 1.3.3 यस्यावयवसंस्थानै: कल्पितो लोकविस्तर: । तद्वै भगवतो रूपं विशुद्धं सत्त्वमूर्जितम् ॥ ३ ॥ yasyāvayava-saṁsthānaiḥ kalpito loka-vistaraḥ tad vai bhagavato rūpaṁ viśuddhaṁ sattvam ūrjitam 宇宙の全惑星系はプルシャの拡張体の上にあるとされているが、主はその創造された物質の要素とは何の関係もない。主のお体は永遠に卓越した精神的存在である。 ŚB 1.3.4
2021-09-281h 02A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 64 (バーガヴァタム1-2-34)Title:『邪悪な者のすること』 1972年11月13日、インド、ヴリンダーヴァンで行われた法話です。 ŚB 1.2.34 भावयत्येष सत्त्वेन लोकान् वै लोकभावन: । लीलावतारानुरतो देवतिर्यङ्‍नरादिषु ॥ ३४ ॥ bhāvayaty eṣa sattvena lokān vai loka-bhāvanaḥ līlāvatārānurato deva-tiryaṅ-narādiṣu このように宇宙の主は神々、人間、下等動物などが住むあらゆる惑星を維持しておられる。主は化身の役割を果たしながら、純粋な徳の様式の中にいる生命体を呼び戻すため、遊戯を繰り広げていらっしゃるのだ。 ーーー法話からーーー 私たちの行動しだいです。今、この瞬間もそうです。誰もが物質自然の資源を自分のために利用することに奔走しています。これが文明発展、進歩なのです。文明発展とは、いかに物質自然を食い物にするかということです。しかし、人々はわかっていません。おろかな人々はこのことが発展ということではないことがわかっていません。これはただ、もつれているだけです。これは発展ではありません。この知識が欠けているのです。人々はいったい発展というのはどういうものなのか、ということがわかっていません。発展とは精神的な生活を向上させること、それが発展です。私たちは魂です。精神的な魂というのが私たちの本質です。私たちはこの体の中に閉じ込められてきました。ですから、この生死の繰り返しという、そういったものから抜け出すこと、それが発展であり、進歩なのです。 それどころか、誕生というものが繰り返されるということ自体わかっていません。この生死の繰り返しを克服することこそ、なすべきことだということを現時点では人々はわかっていません。この生死の繰り返しはもうやめるのだ、やめることはできるのだということが人々はわかっていません。人生は終わりません。この体が終わったからといって、人生は終わったわけではありませんん。体が終わったらといって、あなた自身が終わったしまったというのではないのです。世界中さがしてもこの知識にお目にかかることはできません。
2021-09-2254 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-09-0458 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-08-251h 03A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-08-2457 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-08-201h 13A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-08-181h 05A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-08-111h 00A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-08-0952 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-08-0358 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-07-3055 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-07-271h 01A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 53 (バーガヴァタム1-2-23)Title:『物質世界はチャンスなり』 1972年8月26日、ロサンゼルスで行われた法話です。 ŚB 1.2.23 सत्त्वं रजस्तम इति प्रकृतेर्गुणास्तै- र्युक्त: पर: पुरुष एक इहास्य धत्ते । स्थित्यादये हरिविरिञ्चिहरेति संज्ञा: श्रेयांसि तत्र खलु सत्त्वतनोर्नृणां स्यु: ॥ २३ ॥ sattvaṁ rajas tama iti prakṛter guṇās tair yuktaḥ paraḥ puruṣa eka ihāsya dhatte sthity-ādaye hari-viriñci-hareti saṁjñāḥ śreyāṁsi tatra khalu sattva-tanor nṛṇāṁ syuḥ 超越的な人格神は、激性、徳性、無知という物質自然の三様式と間接的に関わっておられ、ただ物質界の創造、維持、破壊のためだけに、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという3種類の質を帯びた姿を取られる。これら3つのうち、あらゆる人間は徳性の姿であるヴィシュヌから究極の恩恵を受けることができるのである。 ーー 法話から ーー ここ物質世界では人々は皆、自分の要求を満たそうとしています。自分が中心です。ですから、人を食い物にしようとしたり、騙したり、脅したり、ありとあらゆることをして、自分が楽しもうとしている、それだけです。これが、物質世界と精神世界のちがいです。もし、自分が楽しみたい、自分の感覚を満たしたいと思うなら、それは、物質的です。もし、クリシュナを楽しませたい、クリシュナの感覚を満たしたいとお思うなら、それは精神的です。ここが、違いです。ですから、ここでやろうと、バイクンタでやろうと、やることは同じです。ですから、これは、チャンスなんです。感覚を満たそうとして、この物質界にやってきた、そうした制約された魂は機会を与えられているわけです。 もし、幸せになりたいなら、わたしに身をゆだねなさい、ここがポイントです。
2021-07-2548 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-07-2149 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 51 (バーガヴァタム1-2-22)Title:『自己を活性化する』 1972年11月2日、インド、ブリンダーヴィンで行われた法話です。 ŚB 1.2.22 अतो वै कवयो नित्यं भक्तिं परमया मुदा । वासुदेवे भगवति कुर्वन्त्यात्मप्रसादनीम् ॥ २२ ॥ ato vai kavayo nityaṁ bhaktiṁ paramayā mudā vāsudeve bhagavati kurvanty ātma-prasādanīm ゆえに、太古の昔からあらゆる超越主義者たちは大きな喜びに包まれて、人格神主クリシュナに献身的に仕えてきた。そのような献身奉仕は自己を活性化するからである。 ーー 法話から ーー 献身奉仕はātmā(アートマ)である。つまりそれは、自己である、心である、体でもあります。ですから、アートマというのは、体、そして、心、また自己ももさしています。ですから、ātma-prasādanīmというのは、心を満たしたいならば、また、自己をみたしたいならば、あるいは、体を満たしたいならばという意味でもあります。私たちは体、肉体概念の生き方、あるいは、メンタルな概念での生き方、そして、スピリチュアルな、精神的な概念の生き方という三通りの段階で生きています。ひどく無知である人、そういう人は肉体概念の極地で生きています。もう少し発達した、向上した人はメンタル、すなわち、心理的なそうした概念の見方をして生きています。そしてさらにもっと向上している人は精神的な概念で精神的な見方をして、そういう中で生きています。精神的な概念の生き方というのが、ここに書かれています。真実は精神であり、この部室ではありません。物質は真実です。精神より劣ります。物質というのは精神が基本になり、成長します。ちょうど、わたしたちの体は精神的なものが存在するからこそ、それを基盤にして成長しています。ですから、精神的な悟りというのは、私たちのの人生における、究極なゴールです。この人間として生まれた生、これは、Jīvasya tattva-jijñāsā nārtho yaś ceha karmabhiḥ と言われますが、jīvasya tattva-jijñāsā... Jijñāsāというのは、真実について、真実について問う、ということが、生命体がなすべきもつとも主なことです。
2021-07-1650 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-07-1350 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 49 (バーガヴァタム1-2-21)Title:『物質と精神との間にある結び目』 1972年11月1日, インド、ブリンダーヴァンで行われた法話です。 ŚB 1.2.21 भिद्यते हृदयग्रन्थिश्छिद्यन्ते सर्वसंशया: । क्षीयन्ते चास्य कर्माणि द‍ृष्ट एवात्मनीश्वरे ॥ २१ ॥ bhidyate hṛdaya-granthiś chidyante sarva-saṁśayāḥ kṣīyante cāsya karmāṇi dṛṣṭa evātmanīśvare このようにハートの中の結び目が突き刺され、疑いはことごとく砕かれる。結果を求める行為の連鎖は、自己が主人であるとわかった時に終わるのだ。 ーー 法話から ーー 私たちは多種多様な体をしています。体には多様性があります。私たちは人間という体をもって、2つの手があり、二本の足があり、頭がひとつあり、そうした当たり前の要因はあります。しかし、それぞれの体が他の体とは違っています。みんな違います。たった一人たりとも同じ性質、同じ体というものを見つけることはできません。それはなぜかというと、みんなカルマが違うからです。私たちはカルマにしたがって様々な体を得ています。そして、私たちはこのカルマをやめなければなりません。このカルマを止めることです。 どうやったらこのカルマを止めることができるでしょうか? ただクリシュナのために行動すればそうすれば、このカルマの行動の結果から解放されます。 何をするにせよ、クリシュナのためにしなさい。
2021-07-081h 02A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-07-0539 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-07-011h 01A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 46 (バーガヴァタム1-2-20)Title:『精神的な生活は科学なり』 1972年8月23日、ロサンゼルスで行われた法話です。   ŚB 1.2.20 एवं प्रसन्नमनसो भगवद्भक्तियोगत: । भगवत्तत्त्वविज्ञानं मुक्तसङ्गस्य जायते ॥ २० ॥ evaṁ prasanna-manaso bhagavad-bhakti-yogataḥ bhagavat-tattva-vijñānaṁ mukta-saṅgasya jāyate このように純粋な徳の様式に落ち着き、主への献身的な奉仕に触れて精神が活性化された人は、あらゆる物質的なものとの関りから解放された状態で、明確かつ科学的な至高人格神の知識を獲得する。 ーー 法話から ーー   なぜ人間が、文明人と言われる人間が4つの事のために必死にならなければならないのでしょうか?私たちは動物よりもさらに知性を持っています。私たちは動物よりも存在のためにもっと快適にいられるはずです。しかし、実際には人間が存在のために苦しむことは、動物が存在にために苦しんでいることよりも、もっと大きい、存在のためにもっと苦しんでいます。どうして、これを文化、文明と呼ぶんでしょうか?これは、文明ではありません。誰もが平和を、穏やかな日々を求めています。大きなビジネスをして、大変なお仕事をして、とても忙しく働き回っている人でも、週末になればどこかで、ひっそりとしたところで、どっか、くつろげる場所でなにも問題なしに、静かに、穏やかに居たいと、だれもがそう望みます。これは自然なことです。人間の人生というのはそのようでなければいけません。どうして、食べて、寝て、性を営むために、こんなに必死にならなくてはならないのだ、とそのように考えることが自然な事です。人間として自然なことです。これは間違った文明といっていることです。しかし、近代では人間の社会というのは、そのようになってしまっています。ただ、この4つの生きていくための4つの事、ただ、それを満たすことのために、昼も夜も、まるでロバのように必死になっています。そのように人間社会はつくられてしまっています。そして、その4つの事さえも、保証はされていません。 私はインドにいて、そして、皆さんの国に行きました。その時にわたしはみなさんの国に来るときに考えていました。アメリカという国はとても恵まれた、富んだ国であると、そして、そこに行けば食べる事も寝ることも、性を営むも、何の問題もないと、わたしはそのように考えていました。しかし、実際には問題だらけです。人々の文明が休む所を失くして、人々は公園で横たわり、道端で寝ています。どうしてでしょうか?
2021-06-2848 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 45 (バーガヴァタム1-2-19)Title:『クリシュナの慈悲を理解する』 1974年9月27日、インド、カルカッタで行われた法話です。 ŚB 1.2.19 तदा रजस्तमोभावा: कामलोभादयश्च ये । चेत एतैरनाविद्धं स्थितं सत्त्वे प्रसीदति ॥ १९ ॥ tadā rajas-tamo-bhāvāḥ kāma-lobhādayaś ca ye ceta etair anāviddhaṁ sthitaṁ sattve prasīdati 不滅な愛情奉仕がハートの中に確立されたとたん、情欲、欲望、渇望といった激情と無知の自然様式の影響がハートの中から消えていく。すると献身者は徳性の者となり、完全に幸福になるのだ。 ーー 法話から ーー BGにも書かれています。そして、ここにも書かれています。どうしたら、心が穏やかでいられるのか、という事を誰ものが追い求めています。誰もが言います。swamiji、どうか教えてください。どうしたら、心が穏やかになるでしょうか?どうすれば、心の平成さ、穏やかさが手に入るのか、その事が述べられています。 ラジャスでもなく、タマスでもなく、サットヴァグナに身を置く事。タモグナ(tamo-guṇa)というのは、カルミー(karmīs)の生活です。タモグナ(tamo-guṇa)も、ラジョグナ(rajo-guṇa)もそうです。ラジョグナ(rajo-guṇa)も実際、カルミー(karmīs)です。サットヴァグナの次に、あとに、心の穏やかさというのが、やってきます。まずは、サットヴァグナの段階にやってこないといけません。Prasannaとは、幸せなムードの生活という意味です。幸せなムードの生活とは、どういうものでしょうか?嘆くことがない、追い求めることもしない。私たちは物質界にいて何かを追い求めています。これが欲しい、あれが欲しい、これが追い求めるということです。 心が穏やかな状態になった時、バクティが始まります。 心が乱れた状態では、献身奉仕を実行することができません。ですから、最初の段階でもし、いきなり、献身者になったとして、人里離れたところで、私はチャンティングをしますという人がいたら、それは騙しです。それは嘘です。そんなことができるわけがありません。どうしてチャンティングができるでしょうか?できません。なぜなら、心が固定されていないからです。浄化されない限り、心は常に乱れています。これが物質的な状態です。心がきっと乱れているはずです。プララーダマハラージがこのように言いました。これが物質世界の兆候であると。物質世界の兆候とはなんでしょうか?常に不安を抱えている。なぜでしょうか?
2021-06-261h 06A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 44 (バーガヴァタム1-2-19)Title:『愛するためのバクティライフ』 1972年8月22日、ロサンゼルスで行われた法話です。 ŚB 1.2.19 तदा रजस्तमोभावा: कामलोभादयश्च ये । चेत एतैरनाविद्धं स्थितं सत्त्वे प्रसीदति ॥ १९ ॥ tadā rajas-tamo-bhāvāḥ kāma-lobhādayaś ca ye ceta etair anāviddhaṁ sthitaṁ sattve prasīdati 不滅な愛情奉仕がハートの中に確立されたとたん、情欲、欲望、渇望といった激情と無知の自然様式の影響がハートの中から消えていく。すると献身者は徳性の者となり、完全に幸福になるのだ。 ーー 法話から ーー māyāがみなさんのことを攻撃しています。 Guṇaというのはこうした質のことです。自然の3つの様式のことです。物質自然はguṇamayīです。guṇamayīというのはこの物質自然の3つの様式で満ちているということです。māyāという意味ですが、たとえば、それは金のようなもの、それは金ではりめぐされているのか、その金というのが、金製、金箔ではりめぐされているものなのか、金で覆われているだけのものなのか、それと同じように、このmāyā、この物質自然というのは、この3つの様式で覆われています。sattva, raja, tama.これをguṇamayīといいます。 また、このGuṇaの別の意味、これはロープです。ロープをご覧になったことはありますよね?、3つの紐、それがとても強くねじられたています。その3つの紐が捻られていることでとても強くなっています。それと同じようにこの3つのGuṇaが自然の3つの様式がとても強くロープのようにねじられています。そのロープに私たちは縛られているのです。そして、そこから、抜けることができまん。そいったロープで手や足が縛られてしまったらもう、それは抜けることが大変に難しいです。同じように、私たちは縛られてしまっています。私たちは自由を奪われ、そしてたくさんの事を、愚かな事を口にして、縛られてしまっていることをすっかり忘れてしまっています。あっという間にmāyāにやられてしまいます。māyāというのはとっても強いのです。 次の方法により、sattvaのプラットホームに位置することができます。 続きを法話で聴きましょう。
2021-06-231h 02A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 43 (バーガヴァタム1-2-19)Title:『アートマに満足はなし』 1972年10月30日、ブリンダーヴァンで行われた法話です。 ŚB 1.2.19 तदा रजस्तमोभावा: कामलोभादयश्च ये । चेत एतैरनाविद्धं स्थितं सत्त्वे प्रसीदति ॥ १९ ॥ tadā rajas-tamo-bhāvāḥ kāma-lobhādayaś ca ye ceta etair anāviddhaṁ sthitaṁ sattve prasīdati 不滅な愛情奉仕がハートの中に確立されたとたん、情欲、欲望、渇望といった激情と無知の自然様式の影響がハートの中から消えていく。すると献身者は徳性の者となり、完全に幸福になるのだ。 ーー 法話から ーー 私たちは自分たちの心を穏やかにしなければなりません。ですから、誰もがこの時代において、高い段階にいる物質的な人々、発達されたといわれる、物質的な人々さえも、みんな平和を求めています。心の自分のātmāの平穏さ、穏やかさといったものを求めています。例として、西洋諸国からの若い人たち、かれらは、もともと、恵まれた家庭から、とても恵まれた国からやって来ているわけですけど、彼らはお父さん、おじいさん、によってつくられた、、そういったスタンダードの生活、状態、そういったものを捨ててきました。彼らはそういったものが気に入らなかったのです。というのは、彼らは満足していなかったからです。ātmāが満足していませんでした。だから、そこをやめて来ました。bhogaとうのは、楽しみという意味です。そして、tyāgaというのは放棄という意味です。実際のところ、この世界では、とても忙しくして、物質的に楽しむために、とても忙しくしているkarmīsと言われる人たちがいます。また、tyāga、放棄に従事している人もいます。この2種類の活動が行われています。楽しむために感覚を満たすために感覚を楽しませるもの、そいうものを手に入れようとして、とても忙しくしている人たち、そういったことに満足できなかったとき、楽しむことができなかった時、満足できなかった時に彼らは言います。この世界は偽物だ、この世界なんか必要ない。 ぶどうは酸っぱいに違いない、同じ話、ジャッカルとぶどうの話と同じことです。ジャッカルはぶどうが食べたくて飛びつこうと何度も何度も飛び上がりました。ですが、ぶどうのところにはとどきませんでした。そこで、食べれなかったジャッカルはこういうわけです。ぶどうなんか必要ないさ、あれは酸っぱいにちがいない。そういう言葉で自分を満たしました。brahma satyaṁ jagan mithyā というのはそのようなものです。それと同じで、この世界に疲れてしまった、そう言った人たちは、例えば、年をとったからとか、また、いろんな条件のために、楽しめなかったとか、そういったときにそういう人たちは言います。
2021-06-211h 06A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 42 (バーガヴァタム1-2-18)Title:『クリシュナを選ぶか、マーヤを選ぶか』 1972年8月21日、ロサンゼルスで行われた法話です。 ŚB 1.2.18 नष्टप्रायेष्वभद्रेषु नित्यं भागवतसेवया । भगवत्युत्तमश्लोके भक्तिर्भवति नैष्ठिकी ॥ १८ ॥ naṣṭa-prāyeṣv abhadreṣu nityaṁ bhāgavata-sevayā bhagavaty uttama-śloke bhaktir bhavati naiṣṭhikī バーガヴァタムの法話に定期的に集い純粋な献身者に仕えることによって、ハートをわずらわせるありとあらゆる事がほぼ完全に破壊され、超越的な詩歌で称えられる人格神への愛情奉仕が不動の事実として確立される。 ーー 法話から ーー 毎日、バガーヴァタムを崇拝することによって、私たちはこうした汚れたものから解放されることになります。これは前の節で読んだところです。私たちはたくさんの不吉なものをハートの中に取り込んできました。ですから、シュリマード・バーガヴァタム, 或いは、バガヴァッド・ギーター、或いは、献身者の口からクリシュナのメッセージを聴く、ただそれだけで清められていきます。そのようにして、ほとんどの汚れたものがなくなります。きれいになります。でもすべてではありません。ほとんどの汚れたものが浄化された時点でわたしたちは解放されます。そして、直ちに、神への愛を得ることができます。これが元々、持っていた意識です。チャイタニヤマハープラブのように気が狂ったようになるでしょう。ゴーヴィンダと惜別の情を感じます。どのように? 一瞬が12年のように感じられる。 私たちにも時々、経験があります。わたしたちがみたいと思っているもの、それを期待する心理学、そのような名前がついています。誰か、友達とか、恋人とかが来ることになっている、それを期待して待っている、そういう状況で、もし誰かがドアのところでコツっと音がすると、あ、来たの?あ、ちがうちがう、まだ来ていない、こういうふうに、一瞬が12年のように感じられます。そのような惜別の情をクリシュナに対してわたしたちが感じられるようになったとき、全ての汚れたものがなくなってしまったという意味です。
2021-06-191h 00A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 41 (バーガヴァタム1-2-18)Title:『クリシュナの栄光に耳を傾け、浄化されなさい』 1974年9月26日、インド、カルカッタで行われた法話です。 ŚB 1.2.18 नष्टप्रायेष्वभद्रेषु नित्यं भागवतसेवया । भगवत्युत्तमश्लोके भक्तिर्भवति नैष्ठिकी ॥ १८ ॥ naṣṭa-prāyeṣv abhadreṣu nityaṁ bhāgavata-sevayā bhagavaty uttama-śloke bhaktir bhavati naiṣṭhikī バーガヴァタムの法話に定期的に集い純粋な献身者に仕えることによって、ハートをわずらわせるありとあらゆる事がほぼ完全に破壊され、超越的な詩歌で称えられる人格神への愛情奉仕が不動の事実として確立される。 ーー 法話から ーー このようにバガヴァッド・ギーターで言われています。 クリシュナに身を委ねようと、そうすれば、私の人生は完成に達することができる。クリシュナに身を委ね、同意するならば、そのように決定するならば、それはŚraddhāです。 この神もいいし、あの神もいいし、みんな、あなたも神で私も神で、こういう考え方、これはŚraddhāではありません。 例えば、貞淑な女性は、どの男性も皆良いとは言いません。貞淑な女性は言います。わたしの主人だけが良い人ですと。これが貞淑さというものです。中には、どの男性でもいいという人がいるかもしれません。それは貞淑さではありません。同時にŚraddhāというのは貞淑になること、純粋なクリシュナバクティーになること、これが、Śraddhāです。 ここで、みなさんは見ていただけると思います。ここにアメリカ人の、あるいは、ヨーロッパ人の青年たち、彼らはŚraddhāで始めました。私は彼らに言いました。クリシュナこそが至高人格神であると、そして、その青年たちは、その事を受け入れました。若い青年たちはこのようには言いませんでした。あそこにも神がいるし、ここにも神がいるし、あれもこれも神だ、そのようなことは言いませんでした。彼らは自分たちの信念を持ちました。この信念をもったということは、それは彼らの幸運です。彼らはなんでもごちゃまぜにしたような、そういう考え方をしていませんでした。ですから、彼らはそれなりの成果を上げられたわけです。
2021-06-1658 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 40 (バーガヴァタム1-2-18)Title:『煩わしいことすべて撲滅』 1972年10月29日、ブリンダーヴァンで行われた法話です。 ŚB 1.2.18 नष्टप्रायेष्वभद्रेषु नित्यं भागवतसेवया । भगवत्युत्तमश्लोके भक्तिर्भवति नैष्ठिकी ॥ १८ ॥ naṣṭa-prāyeṣv abhadreṣu nityaṁ bhāgavata-sevayā bhagavaty uttama-śloke bhaktir bhavati naiṣṭhikī バーガヴァタムの法話に定期的に集い純粋な献身者に仕えることによって、ハートをわずらわせるありとあらゆる事がほぼ完全に破壊され、超越的な詩歌で称えられる人格神への愛情奉仕が不動の事実として確立される。 ーー 法話から ーー 素敵な服を着て、素晴らしいアパートに住んで、綺麗に体を洗っていれば、それが文明だと、人々は考えています。自分を襲ってくる汚れたものとは何なのかということを人々はわかっていません。何が汚れなのか、その事がわかっていません。 アナルタ、私たちはたくさんの好ましくない、不必要なものを増やしてきました。それをアナルタと呼びます。アナルタというのは、物という意味です。たくさんの例を上げることができます。文明の発達がというものがまだなかった時、人々は銀製品、銀食器、あるいは、金食器、少なくとも、金属で作られた食器で食べていました。今ではプラスチックが使われています。それでも人々は文明の発達というものを誇りに思っています。実際、これはアナルタです。好まざるものです。 わたしたちのハートの中にある汚れたものとはなんでしょうか?その汚れたものを洗い流す、そのプロセスとはなんでしょうか?プラブパーダがこの法話で説いています。
2021-06-141h 06A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 39 (バーガヴァタム1-2-17)Title:『クリシュナが我が子に望むこと』 1972年8月20日、ロサンゼルスで行われた法話です。 ŚB 1.2.17 श‍ृण्वतां स्वकथा: कृष्ण: पुण्यश्रवणकीर्तन: । हृद्यन्त:स्थो ह्यभद्राणि विधुनोति सुहृत्सताम् ॥ १७ ॥ śṛṇvatāṁ sva-kathāḥ kṛṣṇaḥ puṇya-śravaṇa-kīrtanaḥ hṛdy antaḥ stho hy abhadrāṇi vidhunoti suhṛt satām 人格神シュリー・クリシュナは誰ものハートに宿り、誠実な献身者に恩恵を授けてくださる至高の魂である。主の教えを聴きたいという思いに駆り立てられた献身者のハートから、物質的な喜びに対する欲望を洗い流してくださる。その教えは、正しく聴き唱える者の中には徳高く備わっている。 ーー  法話から ーー 少しばかり忍耐をして、少しばかり集中をもって、クリシュナの事に耳を傾ける、クリシュナがBGの中で何をおっしゃっているのか、クリシュナがSBの中で何について語られていらっしゃるのか、ただ、それに耳を傾けるだけです。どんな資格がなくてもいいのです。どんな教育がついていなくても、博士号をもっていなくてもいいのです。ただ聴くだけでいいのです。クリシュナは私たちに耳をくださっています。ですから、聴くことはできます。難しいことでしょうか?クリシュナはとても親切です。僅かでも、クリシュナの事に耳を傾けるということに心が傾けば、、例えば、耳を傾ける、聴く、そして、クリシュナが語っていることが理解できない、クリシュナについて語っていることが理解できない、あなたはサンスクリット語がわからない、英語の翻訳だってわからない、それでも、ただ聴いているだけで、ただ、耳を傾けているだけでいいのです。 私たちはクリシュナについて聴くことによって、少しは理解できます。しかし、小さい子供とか、動物とか、理解できませんが、しかし、ハレークリシュナマハーマントラを聴くことにより、恩恵を得ることができます。みんな恩恵を得ることができます。これは事実です。なぜならこれは音響だからです。これは科学です。ハレークリシュナマハーマントラというのはたいへんに力があるのです。ですから、これを聴く者全てに恩恵を与えます。
2021-06-1052 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 38 (バーガヴァタム1-2-17)Title:『クリシュナは全能なり』 1966年、夏、ニューヨークで行われた法話です。 ŚB 1.2.17 श‍ृण्वतां स्वकथा: कृष्ण: पुण्यश्रवणकीर्तन: । हृद्यन्त:स्थो ह्यभद्राणि विधुनोति सुहृत्सताम् ॥ १७ ॥ śṛṇvatāṁ sva-kathāḥ kṛṣṇaḥ puṇya-śravaṇa-kīrtanaḥ hṛdy antaḥ stho hy abhadrāṇi vidhunoti suhṛt satām 人格神シュリー・クリシュナは誰ものハートに宿り、誠実な献身者に恩恵を授けてくださる至高の魂である。主の教えを聴きたいという思いに駆り立てられた献身者のハートから、物質的な喜びに対する欲望を洗い流してくださる。その教えは、正しく聴き唱える者の中には徳高く備わっている。 ーー 法話から ーー 人が精神的な段階になると、何かを追い求めたり、何かを嘆いたりとすることがなくなります。 失ったものを嘆いたり、また、何かを得たいと追い求めたりすることがなくなります。この物質世界では、この二つのこと、失くしたものを嘆く事、そして、何かを欲して追い求めること、、この二つの事がずっと行われています。わたしたちは持っていないものを追い求めます。これが手に入ったら、きっと幸せになるのにと。お金は今はないけど、でももし、100万円入ったら、そうしたら、私は幸せになれるんだ、と思います。そして、その100万円、一億円が手に入って、それを失くしたとしたら、嘆きます。 brahma-bhūtaḥ,の段階に行けば、嘆いたり、落ち込んだりすることはなくなります。平安でいることができます。たとえ、いかなる困難な状況であろうとも、決して心が乱れることがありません。そういった状況でいられるのです。 私たちが精神的な概念を培っていくならば、そうすれば何が本当の立場なのか、精神的な、超越的な人生において、どういう立場なのか、ということが理解できます。 もし、わたしたちがそのように行動できるとするならば、つまり、わたしはこの体ではない、私は意識なんだ、そのことは事実ですが、もし、わたしが、そういった意識の段階で、行動できるとするならば、そうすれば、行動による、良い結果、あるいは、悪い結果といような、結果というものを克服できます。これが超越的な段階です。至高の段階で行動しなさいということです。失ったものを嘆いたり、欲しいものを追い求める、そのように行動しないということ。もしか、何か手に入れたとしても、それで思い上がってはいけない、その得たものは神のものであると考えること。もし、なにか、失ったとしても、それは自分の責任ではないと、それは、神がそうなさったのだと、そのように考えること。そうすれば、みなさんは幸せになります。これを私たちは実践しなければならない。すべてが至高主によってなされている事です。この超越的な質、超越的な事、これをわたしたちは培わなければならない。これが今の現状で、わたしたちが活動しているトリックです。肉体意識の段階で行動している限り、私たちはこの自分の活動の自分のした行為の反動というものに縛られてしまいます。精神的な意識で活動すれば、経験なものにも、不経験なものにも縛られることはありません。
2021-06-091h 59A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 37 (バーガヴァタム1-2-17)Title:『ハートに宿る友からの助け』 1972年10月28日、ブリンダーヴァンで行われた法話です。 ŚB 1.2.17 श‍ृण्वतां स्वकथा: कृष्ण: पुण्यश्रवणकीर्तन: । हृद्यन्त:स्थो ह्यभद्राणि विधुनोति सुहृत्सताम् ॥ १७ ॥ śṛṇvatāṁ sva-kathāḥ kṛṣṇaḥ puṇya-śravaṇa-kīrtanaḥ hṛdy antaḥ stho hy abhadrāṇi vidhunoti suhṛt satām 人格神シュリー・クリシュナは誰ものハートに宿り、誠実な献身者に恩恵を授けてくださる至高の魂である。主の教えを聴きたいという思いに駆り立てられた献身者のハートから、物質的な喜びに対する欲望を洗い流してくださる。その教えは、正しく聴き唱える者の中には徳高く備わっている。 ーー 法話から ーー 英語のことわざにこのようなものがあります。 ”神は自らを助けるものを助ける” クリシュナ意識になるのは、そんなに難しいことではありません。 人々は味わいというものを持っていません。 人々はこのクリシュナ意識運動の重要性というものを理解していません。 しかし、完全なる幸せを得るには、このクリシュナ意識運動が唯一の方法なのです。 バガヴァッド・ギーターはこのように確証されています。 幸せになりたければ、心穏やかになりたければ、3つの事を学ばなければならない。 私たちは誰もが幸せになりたい、心穏やかで平安でいたいとそのように思っています。 心が常に落ち着かない、これは一般的に理解できることです。 わたしは完全に幸せで完璧に心が穏やかで、平安だと言える人は誰もいません。 それは不可能です。 物質世界というのは幸せを感じられない、そのようにできているのです。 まず、私たちは自らの感覚を満たすためにこの物質世界にやってきました。でも、これが私たちがなすべき仕事ではありません。私たちが本当にしな   ければならない事はなんでしょうか? プラブパーダが法話で続きを説いています。
2021-06-071h 04A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 36 (バーガヴァタム1-2-16)Title:『神のもとへ帰る方法』 1972年8月19日、ロサンゼルスで行われた法話です。 ŚB 1.2.16 शुश्रूषो: श्रद्दधानस्य वासुदेवकथारुचि: । स्यान्महत्सेवया विप्रा: पुण्यतीर्थनिषेवणात् ॥ १६ ॥ śuśrūṣoḥ śraddadhānasya vāsudeva-kathā-ruciḥ syān mahat-sevayā viprāḥ puṇya-tīrtha-niṣevaṇāt 生まれ変わった聖者たちよ、一切の邪心を持たない献身者に仕えることで偉大な奉仕が為される。そのような奉仕によって、ヴァースデーヴァの教えを聴くことへの親近感を得ることとなるのだ。 信念をもって耳を傾ける人、、信念なくしては進歩ををする、向上するということははできません。これが精神生活の第一歩です。 クリシュナ意識というのは、ずっと続いているなと。すばらしいなと。彼らは本当にすばらしいことを布教しているなと、人々はそのように、私たちの活動を褒め称えています。私たちがこの基本となることをずっと守っていけば、そのことの進化を認めてくれます。このことをŚraddhāと言います。たとえ、このクリシュナ意識運動に参加しなくても、それでも、あ、いいことをしているな、クリシュナ意識はすばらしいなと、そのように、ハレークリシュナのひとたちはいい人たちだなと、そのように人が言うだけで、向上するこになるわけです。 たとえば、新聞の紙面なんかで、時々、ハレークリシュナの人々はすばらしいと、もっとハレークリシュナのような人々がいればいいのにと、紙面で書かれることがあります。人々はそういう風にいうのです。たとえ、この運動に参加してこなくても、そのように褒め称える、この運動の進化を認めるだけでも、その認めた人が向上することになるのです。 幼い子どもたちがそうです。赤ちゃんのような小さな子供たちが立ち上がって、子供なりにハレークリシュナを認めて、シンバルをたたきます。わかっていようが、わかっていまいが、そこは問題ではありません。ただ認めているというだけ、その子供にとって、赤ちゃんにとっても精神生活に触れているのです。素晴らしいことです。Śraddhā、それはすばらしいことなんです。 クリシュナ意識運動に反対しないで、背かないで、ただ、その進化を認めただけで、あ、いいことをやっているんだなとそう思うだけで、それだけで精神生活に触れている、それは素晴らしいことです。精神生活を向上させるということは、この進化するという、認めるということを広げるということ、それだけのことなんです。
2021-06-051h 03A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 35 (バーガヴァタム1-2-16)Title:『味わいを深める』 1972年10月27日、 インド、ブリンダーヴァンで行われた法話です。 ŚB 1.2.16 शुश्रूषो: श्रद्दधानस्य वासुदेवकथारुचि: । स्यान्महत्सेवया विप्रा: पुण्यतीर्थनिषेवणात् ॥ १६ ॥ śuśrūṣoḥ śraddadhānasya vāsudeva-kathā-ruciḥ syān mahat-sevayā viprāḥ puṇya-tīrtha-niṣevaṇāt 生まれ変わった聖者たちよ、一切の邪心を持たない献身者に仕えることで偉大な奉仕が為される。そのような奉仕によって、ヴァースデーヴァの教えを聴くことへの親近感を得ることとなるのだ。 ーー 法話から ーー 例えば、しょっぱいものが好きな人もいます。また、甘いものを食べることに惹かれる人もいます。また、スパイスの効いたものを食べたい人もいます。そのように、みなさん食べ物に好みは違いますが、それと同様に、私たちの味わい、クリシュナへの味わい、クリシュナへの性質、そういったものを高めていかなければなりません。 これが私たちの完成への始まりなのです。 そういう状態になる前というのは、物質的な意識にあるわけです。私たちがクリシュナへの味わいを増す、クリシュナへの理解を深める、そうすると、人が解放された時にruciというものがやってきます。 まず、信念というものが必要になってきます。 クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中でおっしゃっています。私以上の権威は存在しない。他に誰もいない。私こそが至高であると、そのようにおっしゃっています。ですから、クリシュナのおっしゃっている説明に信念をもつということです。 アルジュナがいい例です。アルジュナがバガヴァッド・ギーターを聴いた後でこのように言いました。 『親愛なるクリシュナよ、あなたがおっしゃっていることは何であれ、一言、一言、すべて一言残さず、すべて受け止めます。』そういいました。 これが必要なんです!
2021-06-031h 08A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 34 (バーガヴァタム1-3-15)Title:『マーヤに心を預けるな』 1972年9月20日、ロサンゼルスで行われた法話です。 ーー 法話から ーー とても腕のたつ、お医者さん、医療の人がいたとする、そうすると、その人はあなたに、あなたの病気に処方箋とうものを出してくれる。そして、あなたはそのお医者さんのところに何度も何度も通う。お医者さんはあなたがその病気が治らないかぎり同じ処方箋を与えます。その処方箋がちゃんといいものであれば絶対に変えはしません。けれども、経験を積んでいない薬剤師、そういう人がいたら、行くたんびに、くれる薬が違います。しかし、経験のある薬剤師は知っているわけです。最終的にこの病気を治すのはこの薬なんだということを知ってるわけです。この薬はきっと治すからこの薬を繰り返し、処方しつづけようと考えます。私たちもそれと同じです。 Harer nāma harer nāma harer nāmaiva kevalam 私たちは変えることをしません。 今、hari-nāmaをしているけれど、hari-nāmaが自分のことをまだ治してくれない、だから、ちょっと、ハレークリシュナの代わりに、ジョン クリシュナとか言ったとします。(笑) それではダメです!、ジョン クリシュナではダメなのです。、同じ、ハレークリシュナを繰り返さなければなりません。そうすれば、みなさんは治ります。
2021-05-311h 07A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 33 (バーガヴァタム1-2-15)Title:『カルマの結び目を切る』 1972年8月18日、ロサンゼルスで行われた法話です。 ŚB 1.2.15 यदनुध्यासिना युक्ता: कर्मग्रन्थिनिबन्धनम् । छिन्दन्ति कोविदास्तस्य को न कुर्यात्कथारतिम् ॥ १५ ॥ yad-anudhyāsinā yuktāḥ karma-granthi-nibandhanam chindanti kovidās tasya ko na kuryāt kathā-ratim 聡明な者は剣を手にし、至高人格神を思いながら反動的な作用(カルマ)という束縛の結び目を切り落としていく。ならば、主の教えに耳を傾けない者などいるだろうか? ーー 法話から ーー 私たち、生命体、わたしたちはこの体で制約を受けて、条件づけられた状態にあります。この体そのものが、わたしたちはこの体を持っている、そのことがもう、処罰を与えられているのです。このことを悪人たちが理解していません。それで何とか、この体を楽しもうとしています。 自分の人生とは、いったいどういう状態にあるのか、私はいったい何をしているのだろう?そういう時に気づいていない時、そういう状態を結び目だと呼びます。とてもきつく結ばれた結び目です。 ここに薬があります。どんな薬でしょうか? もし本当に解けない硬い結び目があったとしたら、鋭いナイフを取り出して切り落とします。そうすれば、結び目はほどけます。すぐに解けます。 同様に、この物質的な人生というのは結び目なのです。とても強い結び目なのです。全世界というのはこの自然の法則によって縛られています。なぜでしょうか?わたしたちは強い何の欲望があるのでしょうか? プラブパーダは、この結び目を解く方法を法話で説いています。パワフルな法話です!
2021-05-281h 02A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 32 (バーガヴァタム1-2-14)Title:『4つの社会階級を作る』 1972年8月17日、ロサンゼルスで行われた法話です。 ŚB 1.2.14 तस्मादेकेन मनसा भगवान् सात्वतां पति: । श्रोतव्य: कीर्तितव्यश्च ध्येय: पूज्यश्च नित्यदा ॥ १४ ॥ tasmād ekena manasā bhagavān sātvatāṁ patiḥ śrotavyaḥ kīrtitavyaś ca dhyeyaḥ pūjyaś ca nityadā ゆえに、献身者を守ってくださる人格神について絶えず一心不乱に耳を傾け、栄光を称え、想い、崇拝すべきである。 ーー 法話から ーー ヒラニヤカシプのように、彼は献身者であるブラフマーから恩恵を与えられました。ヒラニヤカシプは様々な恩恵を受けました。私はあんなふうには死なない、こんな風には死なない、様々な条件をつけました。 しかし、クリシュナはそのことをご覧になって、そして、この悪者は様々な混乱を招いている。いったいどうやって殺そうか、とお考えになりました。そこで、その献身者である、主ブラフマーの言葉、それを守るためにクリシュナは、ヒラニヤカシプが持ち出した、様々な条件にはまったく触れませんでした。 ヒラニヤカシプの出してきた条件に触らないような別の方法で彼を殺しました。 ヒラニヤカシプは言いました。私はどんな動物にも殺されない、どんな人間にも殺されないと。あ、いいでしょう!ナラシンハデヴァは人間でもなければ、動物でもありませんでした。また、ヒラニヤカシプはこのように望みました。昼にも殺されない、夜にも殺されないと。あ、いいでしょう!、ひるでもない、夜でもない、夕方という時間に殺されました。また、ヒラニヤカシプは望みました。地上でも殺されない、空中でも殺されないと。彼は膝の上で殺されました。 これが神です。あなたは何とか、神をごまかそうとう知性を持つかもしれない。しかし、神はあなたよりももっと知性があるのです。あなたの使おうとしているトリックなどはすべて見破っています。そして、死に至らしめます。これは避けることができません。神なんかいないというかもしれない。しかし、あなたの死のときには、神はやっていきます。ヒラニヤカシプのときはそうです。ヒラニヤカシプは神を信じていませんでした。しかし、神は現れました。神はここにいますよと。ここで、あなたは神は何か見ることができたでしょうと。 ですから、そのような形で神に会うことになる前に、常に神のことをハートの中で思っている方が良いです。神の知識を育んだ者、そうした人はいつもハートの中で神のことを見ています。 これを修練すべきです。
2021-05-251h 07A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 31 (バーガヴァタム1-2-13)Title:『クリシュナが大丈夫と言うなら』 1972年10月24日、ブリンダーヴァンで行われた法話です。 ŚB 1.2.13 अत: पुम्भिर्द्विजश्रेष्ठा वर्णाश्रमविभागश: । स्वनुष्ठितस्य धर्मस्य संसिद्धिर्हरितोषणम् ॥ १३ ॥ ataḥ pumbhir dvija-śreṣṭhā varṇāśrama-vibhāgaśaḥ svanuṣṭhitasya dharmasya saṁsiddhir hari-toṣaṇam 二度目の誕生をした者の中で最高の者よ、ゆえに結論として言えることは、社会階級と生活区分にふさわしい職業上の義務を遂行して得られる完成の中で最高のものは、人格神を喜ばせることである。 ーー 法話から ーー 人々が関心を持っているのは、外的な、外向けの体だけです。本当の自分というのはこの覆い、この体ではありません。わたしたちには魂の情報が与えられていません。ヴィシュヌについての情報も魂の起源の情報も与えられていません。 ちょうど、私たちのバーガヴァタムの本の中にある絵ですけれども、この一つの絵は女性は鳥かごを世話して綺麗にしている。しかし、その鳥かごの中の鳥は死んでいる。わたしたちは体を一生懸命世話しているけれども、しかし、内なる魂の世話をしていないとうことです。 これが牛とロバの文化です。
2021-05-2555 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 30 (バーガヴァタム1-2-12)Title:『クリシュナと踊る資格』 1973年11月18日、インド、デリーで行われた法話です。 ŚB 1.2.12 तच्छ्रद्दधाना मुनयो ज्ञानवैराग्ययुक्तया । पश्यन्त्यात्मनि चात्मानं भक्त्या श्रुतगृहीतया ॥ १२ ॥ tac chraddadhānā munayo jñāna-vairāgya-yuktayā paśyanty ātmani cātmānaṁ bhaktyā śruta-gṛhītayā 知識と放棄を備えて誠実に質問する学徒や聖者たちは、ヴェーダーンタ・シュルティから学んだとおりに献身奉仕をすることにより、絶対真理を理解する。 ーー 法話から ーー 誰もが楽しみたいと思っています。それは自然な傾向です。   女性と楽しみたいとか、交際したいとか、すごいお金持ちがやはり、素敵な美しい女性と交際したいと、そのように望んでいます。   西洋諸国でも私はそのようなことを目にしてきました。パリに行くとたくさんのクラブがありますが、女性と交際するというためにあります。そのことはみんな知っています。そういう傾向は確かに存在します。そういった傾向があるというのは、豊かであるという意味でもあります。 この物質世界においては同じようにそういったものが存在し、貧困というものも存在しますが、それが本体の立場ではありません。  ですから、私たちは欲求不満に陥っているわけです。
2021-05-241h 34A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 29 (バーガヴァタム1-2-12)Title:『豚や犬を越える課題』 1972年10月23日、インド、ブリンダーヴィンで行われた法話です。 ŚB 1.2.12 तच्छ्रद्दधाना मुनयो ज्ञानवैराग्ययुक्तया । पश्यन्त्यात्मनि चात्मानं भक्त्या श्रुतगृहीतया ॥ १२ ॥ tac chraddadhānā munayo jñāna-vairāgya-yuktayā paśyanty ātmani cātmānaṁ bhaktyā śruta-gṛhītayā 知識と放棄を備えて誠実に質問する学徒や聖者たちは、ヴェーダーンタ・シュルティから学んだとおりに献身奉仕をすることにより、絶対真理を理解する。 ーー 法話から ーー 物質的な教育というのはただ単にマーヤの富を増やしているに過ぎない。 例えば、わたしは暗闇の中にいる。その暗闇がどんどん広がってもっと暗闇がおおきくなっているのを進歩とか、進化とか呼ぶでしょうか? 暗闇の中に必要なのは明かりです。その暗闇の中に明かりがあれば、それは進歩した状況になってきていると言えます。いわゆる名前ばかりの物質的な教育というものがどんどん大きくなっていく、そのことはただ単に人々にもっともっとこの物質世界に引きつけるだけ、それを進化と呼んでしまっています。人生の価値はいったいなんであろうかという、この知識を取り入れることです。そして、実際に、その知識の段階に到達することができたならばその人は物質世界から執着をなくしていかなければなりません。それが必要です。 しかし、実際にどうなってるか、実際は人生の価値、知識、それがなくて、人々はどんどんと物質世界に執着を強めてしまっています。だから、クリシュナはおっしゃっているのです。いわゆる教育、進歩というもの、それは、マーヤ、幻想エネルギーがこの知識の本当の目的というものを覆い隠しています。ただ、無駄にしています。 ロサンゼルスの大学から、たくさんの科学者とか、心理学者とか、いろんな学者さんたちがきました。そこで私たちは話したんですが、私はこのように言いました。この今の教育の進歩と言われるものが人々を低級な人類にしていると言いました。学生たちはそのことを受け入れました。中にはとても真剣な学徒たちもいたからです。 この教育というものは、人が物質的な教育がつけばつくほど、興味を失っています。
2021-05-231h 30A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 28 (バーガヴァタム1-2-12)Title:『クリシュナに会いたいと切望せよ』 1972年8月5日、ロスサンゼルスで行われた法話です。 ŚB 1.2.12 तच्छ्रद्दधाना मुनयो ज्ञानवैराग्ययुक्तया । पश्यन्त्यात्मनि चात्मानं भक्त्या श्रुतगृहीतया ॥ १२ ॥ tac chraddadhānā munayo jñāna-vairāgya-yuktayā paśyanty ātmani cātmānaṁ bhaktyā śruta-gṛhītayā 知識と放棄を備えて誠実に質問する学徒や聖者たちは、ヴェーダーンタ・シュルティから学んだとおりに献身奉仕をすることにより、絶対真理を理解する。 ーー 法話から ーー 神を見たことがありますか? こういった質問に時々遭遇します。 答えはこうです。はい、見ることができますよ、誰でも見ることができます。私も神を見ています。 しかし、そこには資格が必要です。 例えば、こういったものです。 神はいます。と同じように、車があります。 車のどこかが調子悪い、誰もがその車を見ているんですけれども、しかし、エンジニア、修理工の人、そういう人はまた見るところが違います。ですから、私たちはその車を修理工の所に持っていかなければなりません。ちゃんと走らないんですけれど、どこか悪いんでしょうか?そうすると、修理工の人はどこか、その部品をみて、部品をどこか触って、普通に動くようになります。 でも、悪質な人はそのことがわかっていません。ですから、悪質な人は自分には資格がないのに、どうしたら神が見れるかと言います。 車がどっか調子わるい、エンジニアの人の見方と私の見方と同じではありません。修理工の人は見る資格を持っています。ですから、何かがおかしくなったら、すぐにどこかのパートを触ります。車をみるのにもそんな資格が必要なのですから、 神を見るにはそれなりの資格が必要だということです。
2021-05-2234 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-05-191h 06A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 26 (バーガヴァタム1-2-10)Title:『産業発展などない』 1972年10月21日、インド、ブリンダーヴァンで行われた法話です。 ŚB 1.2.10 कामस्य नेन्द्रियप्रीतिर्लाभो जीवेत यावता । जीवस्य तत्त्वजिज्ञासा नार्थो यश्चेह कर्मभि: ॥ १० ॥ kāmasya nendriya-prītir lābho jīveta yāvatā jīvasya tattva-jijñāsā nārtho yaś ceha karmabhiḥ 人生の願望を決して感覚満足に向けてはならない。人間とは絶対真理について問うためのものであるから、健全な生活、すなわち自己の維持だけを望むべきである。他のいかなるものも、仕事の目的にしてはならない。 ー 内容から ー 私たちのクリシュナのへの愛というのはもうすでにあるのです。 ただ覆われているのです。物質自然の様式の影響によって覆われている状態です。ですから、このクリシュナ意識運動というのは、他の何ものでもありません。そのクリシュナ意識を見つけるということです。もうクリシュナ意識はちゃんと初めから既にあるのです。でも、わたしたちは人々にこのクリシュナのことに耳を傾ける、その機会を与えています。ただそれだけなのです。ここにいる、ヨーロッパの、あるいは、アメリカの青年、少女たちたち、この人たちはこの運動に参加していますが、ただ、聞くということ、クリシュナのことに耳を傾けるという機会が与えられただけのことのなのです。 事実、人がこのハレークリシュナマントラを聞く機会を与えられたなら、そうすれば、次第次にそれぞれのハートの中にある汚いものが浄化されて、そして、クリシュナは一体何であるかを理解できるようになります。それが方法なのです。 私たちは人々に向かって、これになりなさい、あれになりなさいとか、そういうことは言いません。ただ私たちが人々にいうことは、どうか一緒に唱えてくださいというだけです。 わたしはニューヨークにある、ある公園で唱え始めました。わたしは木の下に座っていました。わたしはそこで、2時から5時まで3時間の間、唱えていました。そうすると、青年や少女たち、犬を連れて、子供を連れて、人々がやってきて一緒に踊り始めました。それが始まりでした。そんな風にして、だんだんとその人たちが生徒になっていきました。 このようにしてだんだんと大きくなっていきました。まず最初はニューヨーク、サンフランシスコ、モントリオールと広がっていきました。そして、今は世界中に100以上のテンプルがあります。(1972年) わたしたちがしたことは、ただ、唱えたことだけです。
2021-05-161h 06A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 25 (バーガヴァタム1-2-10)Title:『愛はクリシュナから来たり』 1973年11月16日、インド、ニューデリーで行われた法話です。 ŚB 1.2.10 कामस्य नेन्द्रियप्रीतिर्लाभो जीवेत यावता । जीवस्य तत्त्वजिज्ञासा नार्थो यश्चेह कर्मभि: ॥ १० ॥ kāmasya nendriya-prītir lābho jīveta yāvatā jīvasya tattva-jijñāsā nārtho yaś ceha karmabhiḥ 人生の願望を決して感覚満足に向けてはならない。人間とは絶対真理について問うためのものであるから、健全な生活、すなわち自己の維持だけを望むべきである。他のいかなるものも、仕事の目的にしてはならない。 ーー 法話から ーー クリシュナというのは、愛する人という意味です。クリシュナという言葉そのままの意味は、すべてを魅了するという意味です。心をひかれる、魅了されるというのは愛情によって心を惹かれます。他のものではありません。ですから、その名前をクリシュナといいます。 この完璧なる愛、私達はみな、愛を求めています。青年も愛を求め、少年も愛を求めています。では、この愛とはどこからくるのでしょうか?それは、愛というのは、もともと、本来、クリシュナの中にあるものだ、これが、ヴェーダンタスートラの見解です。この愛するということ、これは、至高なる絶対真理から来ています。ただ、それが歪んだ形で反映されているのです。歪んだ形での反映、この物質世界では、私達が目にするものは全部、精神世界のものが歪んだ形で反映されているものです。 ですから、SBの中でも最初にこのように書かれています。すべてのものが歪んでいると。歪んだ形で影となっていると。例があげられています。ちょうどそれは、砂漠の中で水を見つけるようなものだと。この太陽の光によって水そっくりなまったく本物ではない写しが現れます。でもそこには水はないのです。ただ水の映像があるだけです。それと同様にこの物質界にあるものは、愛の反映だけ、愛を写した影となっているものだけです。実際に愛とは、この物質界にはありません。この物質世界にあると思われる愛というのは砂漠の中の蜃気楼です。ですから、本当の愛というものを求めるなら、この愛という言葉はすべてを魅了するお方、クリシュナにしか当てはまらないのです。 ですから、クリシュナ意識運動というのは、人々にこう言った幻覚な形ばかりの水だとか、愛だとか、心を惑わせてはいけないと、そういう事を教えるためにあるのです。現実は一つだけです。本当の現実まで来てください。本物ではない現実にはまらないでください。これが、バクティヨーガ、クリシュナ意識運動です。
2021-05-141h 01A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 24 (バーガヴァタム1-2-9)Title:『神に何を求めるか』 1972年9月7日、インド、ニューブリンダーヴィンで行われた法話です。 ŚB 1.2.9 धर्मस्य ह्यापवर्ग्यस्य नार्थोऽर्थायोपकल्पते । नार्थस्य धर्मैकान्तस्य कामो लाभाय हि स्मृत: ॥ ९ ॥ dharmasya hy āpavargyasya nārtho ’rthāyopakalpate nārthasya dharmaikāntasya kāmo lābhāya hi smṛtaḥ 職業上の仕事はどれも究極的な解放のためのものであることは確かであり、物質的なものを獲得するために行ってはならない。さらに、最高の奉仕に従事している者は、獲得した物質的な利益を自らの感覚を満たすために使ってはならない、と賢者は言う。 ー 法話の内容から ーー この権威ある知識の中では、たとえば、バガヴァッド・ギーターがそうですが、来世というのは受け入れられています。バガヴァッド・ギーターの最初、冒頭から、魂は永遠であると書かれています。魂は永遠であって、次から次へと移っていくと。ですから、来世はあるんだというふうに書かれています。これが権威ある知識です。誰かがもし、生まれる、誕生なんてないんだと言ったとするならば、そのことは権威ずけられていません。それは俗人の言っていることです。俗人はなんでも好きなように何でも言えるのです。その結果はどこにあるでしょうか?結論というのは権威ある権威者から権威ある知識を受け入れる。権威者は普通の人のような4つの欠陥を持たない人。(BG16-24) 間違いを犯さない人。 幻想に犯されない人。 決して騙すことがない人。 感覚が完璧な人。 私たちはこういう質をもっていません。そんな私達がどうやって完璧な知識を作り出すことができるでしょうか?そんなことは不可能です。ですから私達の原則、すなわち、ヴェーダの原則とうのは完璧な方から知識を得るということです。
2021-05-121h 36A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 23 (バーガヴァタム1-2-9)Title:『幻想』 1974年4月23日、インド、ハイデラバードで行われた法話です。 ŚB 1.2.9 धर्मस्य ह्यापवर्ग्यस्य नार्थोऽर्थायोपकल्पते । नार्थस्य धर्मैकान्तस्य कामो लाभाय हि स्मृत: ॥ ९ ॥ dharmasya hy āpavargyasya nārtho ’rthāyopakalpate nārthasya dharmaikāntasya kāmo lābhāya hi smṛtaḥ 職業上の仕事はどれも究極的な解放のためのものであることは確かであり、物質的なものを獲得するために行ってはならない。さらに、最高の奉仕に従事している者は、獲得した物質的な利益を自らの感覚を満たすために使ってはならない、と賢者は言う。 ーー 法話の内容から ーー 誰もが私は幸せだと思っています。しかし、この体、肉体というのは苦しみなのです。苦しんでいないという人はいるでしょうか?この体とうのは苦しむためにあるのです。すごい暑さに苦しむ。あまりの寒さに苦しむ、これも苦しみです。それでもわたしたちは快適だと思っているのです。こんな暑さなんて望んでいないのに、どうしてこんな暑さを強いられるのだろうと人々は考えません。改善策はなんだろう、もうこういうのは嫌だと考えなくてはなりません。しかし、わたしたちはこの物質の体を受け入れています。 わたしたちは感覚を満たそうとして罪深いことをたくさんしています。そして、どんどん巻き込まれています。これはよくありません。なぜでしょうか?この魂はこのビカルマのために、私たちはこの体を受け入れなくてはならなかった。私たちは十分に苦しんでいるではないか、今、私たちは体をもっているということは、苦しんでいるということです。それはあなたたちの過去の行動によって得た体です。それなのに、また同じことをしてまた苦しむために別の体を得ようとしているのです。そんなことが知性あることと思いますか?それは違います。それは知性とは呼びません。これは正気じゃない人が考えることです。本当に考えることは、それは、どうすれば永遠に幸せになれるかということです。これがクリシュナ意識です。クリシュナはこのようにおっしゃっています。これが完成です。これが本当の人生です。どうか、クリシュナ意識を始めて実行してください。 この機会を与えるために世界中にセンターを開いています。これはでっちあげではありません。これはとても厳格に経典に則っています。権威づけられたものです。もし、あなたがクリシュナ意識を始めるなら、永遠に幸せになれるでしょう!
2021-05-101h 09A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 22 (バーガヴァタム1-2-9)Title:『クリシュナへの奉仕は誰にでもできる』 1972年10月20日、インド、ブリンダーヴィンで行われた法話です。 ŚB 1.2.9 धर्मस्य ह्यापवर्ग्यस्य नार्थोऽर्थायोपकल्पते । नार्थस्य धर्मैकान्तस्य कामो लाभाय हि स्मृत: ॥ ९ ॥ dharmasya hy āpavargyasya nārtho ’rthāyopakalpate nārthasya dharmaikāntasya kāmo lābhāya hi smṛtaḥ 職業上の仕事はどれも究極的な解放のためのものであることは確かであり、物質的なものを獲得するために行ってはならない。さらに、最高の奉仕に従事している者は、獲得した物質的な利益を自らの感覚を満たすために使ってはならない、と賢者は言う。 ーーー 法話の内容から ーーー 人々は私たちのことをこういうふうに言います。クリシュナ意識運動をやっている人々、この人たちは逃避しているのだ。彼らは働きたくないから逃げているのだ。そのようにいう人がいます。社会に頼って、他の人が働いたお金で食べているのだという人がたくさんいます。実際にはそれは本当のことではありません。クリシュナは全ての人に食べ物を与えています。840万種類の生命体がいて、神の保護で食べています。それなのに、なぜ人間は経済問題を解決するためにこんなに必死にならないといけないのでしょうか?それは文明が愚かだからです。すべてはもうあるのです。いくらか働けばいいのです。この物質界というのはいくらか働かなければ食べていけないのです。食べ物を得られないのです。そのように造られているのです。
2021-05-101h 06A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 21 (バーガヴァタム1-2-9.10)Title:『真なるダルマはカルマではない』 1973年11月14日、インド、ニューデリーで行われた法話です。 ŚB 1.2.9 धर्मस्य ह्यापवर्ग्यस्य नार्थोऽर्थायोपकल्पते । नार्थस्य धर्मैकान्तस्य कामो लाभाय हि स्मृत: ॥ ९ ॥ dharmasya hy āpavargyasya nārtho ’rthāyopakalpate nārthasya dharmaikāntasya kāmo lābhāya hi smṛtaḥ 職業上の仕事はどれも究極的な解放のためのものであることは確かであり、物質的なものを獲得するために行ってはならない。さらに、最高の奉仕に従事している者は、獲得した物質的な利益を自らの感覚を満たすために使ってはならない、と賢者は言う。 ŚB 1.2.10 कामस्य नेन्द्रियप्रीतिर्लाभो जीवेत यावता । जीवस्य तत्त्वजिज्ञासा नार्थो यश्चेह कर्मभि: ॥ १० ॥ kāmasya nendriya-prītir lābho jīveta yāvatā jīvasya tattva-jijñāsā nārtho yaś ceha karmabhiḥ 人生の願望を決して感覚満足に向けてはならない。人間とは絶対真理について問うためのものであるから、健全な生活、すなわち自己の維持だけを望むべきである。他のいかなるものも、仕事の目的にしてはならない。 ーー 法話の内容の一部から ーー カルマとは自分の感覚を満足させること、そしてバクティというのは主に満足していただくことです。行為は同じです。ですから人々はカルミーとバクターの違いがわからないのです。カルミーというのは自分の感覚を満たすこと、バクターというのはクリシュナの感覚を満たしてさしあげることです。感覚を満たすという行為は存在するのですが、クリシュナに満足していただく、これがバクティです。 バクティとは行動を止めなさいという意味ではありません。バクティというのは、自分の持つ全ての感覚を感覚を与えてくださった方、その方の感覚を満たすために使うということです。これをバクティと呼びます。
2021-05-081h 21A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 20 (バーガヴァタム1-2-8)Title:『目に見えない体を精神化する』 1972年9月6日、インド、ニューブリンダーヴィンで行われた法話です。 ŚB 1.2.8 धर्म: स्वनुष्ठित: पुंसां विष्वक्सेनकथासु य: । नोत्पादयेद्यदि रतिं श्रम एव हि केवलम् ॥ ८ ॥ dharmaḥ svanuṣṭhitaḥ puṁsāṁ viṣvaksena-kathāsu yaḥ notpādayed yadi ratiṁ śrama eva hi kevalam 自分の立場に応じてしていたとしても、人格神の教えに対して魅力を掻き立てられないような職務なら、それはまったく無益な労働にすぎない。 ーー 法話の内容から ーー 希薄な体は解脱したとき、解放された時になくなります。この解脱した時、この希薄な体からも解放されます。精神的な体を得て、精神的な王国へと移動します。ですから、この物質的な体に入っている間に希薄な体のほうを教育し、完全に精神化されるように教育しなければなりません。この希薄な体というのは、心と知性と偽のエゴでできています。わたしはアメリカ人だ、インド人だ白人だ、黒人だ、人間だ、動物だ、自分はこれだ、あれだと考えています。この私は何であるか、これが変わらなくてはなりません。わたしは神の永遠なる僕であると変わらないといけません。 もし、このようにしてこの希薄は体の行動に教育をつけて心と知性と偽の自我でできた希薄な体を教育するならば、死んだ時にこの希薄な体を置いて、残して、そして、あなたは精神的な体を得て、精神的な神の王国に戻ることができる、これがクリシュナ意識運動です。 目に見える体は自動的に離れます。ですから、どうやって私たちは希薄な体を去るか、離れるか、そこを修練しないといけません。この希薄な体から離れるためには私たちは、神への愛を育まなければなりません。プレマとよばれるものです。 どうしたら、この希薄な体を離れることができるかというプロセスがあります。
2021-05-071h 21A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 19 (バーガヴァタム1-2-8)Title:『義務か、時間の浪費か』 1974年4月22日、インド、ムンバイで行われた法話です。 ŚB 1.2.8 धर्म: स्वनुष्ठित: पुंसां विष्वक्सेनकथासु य: । नोत्पादयेद्यदि रतिं श्रम एव हि केवलम् ॥ ८ ॥ dharmaḥ svanuṣṭhitaḥ puṁsāṁ viṣvaksena-kathāsu yaḥ notpādayed yadi ratiṁ śrama eva hi kevalam 自分の立場に応じてしていたとしても、人格神の教えに対して魅力を掻き立てられないような職務なら、それはまったく無益な労働にすぎない。 ーー 法話の内容から ーー 私たちはこの物質界に関わるとすぐに汚れてしまいます。空から落ちてくる透明な雨水、これは蒸留水ですが、それが地上に達した途端にすぐに泥だらけになってしまいます。ですから、現在の状況として、私たちの意識は汚れた意識となっています。 バガヴァッド・ギーターに書かれています。わたしたちはハートの中にたくさんの汚れたものを持っています。どうしてそんなによごれてしまったのでしょう?物質自然と関わってきたためにこんなに汚れを大きくしてしまったのです。 これがわたしたちの病気です。
2021-05-061h 12A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 18 (バーガヴァタム1-2-7)Title:『自分の立場を理解しなさい』 1974年4月21日、インド、ハイデラバードで行われた法話です。   ŚB 1.2.7 वासुदेवे भगवति भक्तियोग: प्रयोजित: । जनयत्याशु वैराग्यं ज्ञानं च यदहैतुकम् ॥ ७ ॥ vāsudeve bhagavati bhakti-yogaḥ prayojitaḥ janayaty āśu vairāgyaṁ jñānaṁ ca yad ahaitukam 至高人格神シュリー・クリシュナに献身奉仕をすることにより、人は直ちにいわれのない知識を授かり、この世界への執着をなくしていく。 ーー 法話の内容から ーー   神の愛を得ることにより、毎瞬間、神を見ることができます。人は聞きます。神を見たことがありますか?と。神を見るというのは大して難しいことではありません。ただあなたがその神をみる資格を得ればいいだけのことなんです。神への愛をもっていればいいだけなんです。そうすれば神をみることができます。 経典にも書かれてますが、あなたがたとえクリシュナ意識を培っていなくても、あなたなりの方法で神を見ることできるんです。このように、クリシュナは言っています。私は水の味であると。たとえば、あなたは水を飲みます。水を飲んだ時に、あなたは水の味、クリシュナだと、あなたは思う。そんなことが難しいことでしょうか?いいえ、まったく難しいことではありません。 お日様の光とか、月の光とか、そういったものをみないということはないですよね。人々は神をみたことがあるかあるのかと聞きますが、しかし、みなさんは神を見ているはずです。なぜなら、クリシュナご自身が『わたしは太陽の光』であるとおっしゃっている。太陽の光をみたことがない人なんているでしょうか? ですから、そのように神を見るように始めなくてはいけません。そしてクリシュナを思い出すことができれば、それはつまり、『見ている』ということなんです。『見ること』、精神的に見るということは、この私たちの目で見るということではないのです。 クリシュナについて聞く時、唱える時、思っている時、その時、神を見ているのです。 これがプロセスです。そして、これがバクティヨーガです。 プラブパーダがどのようにバクティヨーガを学べばよいか、人間としての立場を理解することを説いています。続きは法話でお聴きください。
2021-05-031h 24A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 17 (バーガヴァタム1-2-7.8)Title:『神から神の理解を得る』 1973年11月13日、インド、デリーで行われた法話です。 ŚB 1.2.7 वासुदेवे भगवति भक्तियोग: प्रयोजित: । जनयत्याशु वैराग्यं ज्ञानं च यदहैतुकम् ॥ ७ ॥ vāsudeve bhagavati bhakti-yogaḥ prayojitaḥ janayaty āśu vairāgyaṁ jñānaṁ ca yad ahaitukam 至高人格神シュリー・クリシュナに献身奉仕をすることにより、人は直ちにいわれのない知識を授かり、この世界への執着をなくしていく。 ŚB 1.2.8 धर्म: स्वनुष्ठित: पुंसां विष्वक्सेनकथासु य: । नोत्पादयेद्यदि रतिं श्रम एव हि केवलम् ॥ ८ ॥ dharmaḥ svanuṣṭhitaḥ puṁsāṁ viṣvaksena-kathāsu yaḥ notpādayed yadi ratiṁ śrama eva hi kevalam 自分の立場に応じてしていたとしても、人格神の教えに対して魅力を掻き立てられないような職務なら、それはまったく無益な労働にすぎない。 ー 法話の内容から ー バクティという意味は支えるということ、ヨーガというのはその過程、方法という意味です。 このことはバガヴァッド・ギーターにも書かれています。バガヴァッド・ギーターというのはバクティヨーガーです。 クリシュナに保護を求める、その代表者に保護を求めなくてはいけません。 ヴェーダではこのように進めています。暗闇に居続けてはいけない。明るいところに、火のあるところにいきなさいと。
2021-04-301h 15A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 16 (バーガヴァタム1-2-6)Title:『心の完全平和をめざす』 1973年11月12日、インド、デリーで行われた法話です。 ŚB 1.2.6 स वै पुंसां परो धर्मो यतो भक्तिरधोक्षजे । अहैतुक्यप्रतिहता ययात्मा सुप्रसीदति ॥ ६ ॥ sa vai puṁsāṁ paro dharmo yato bhaktir adhokṣaje ahaituky apratihatā yayātmā suprasīdati 全人類にとっての至高の職務(ダルマ)とは、超越的なる主に愛を込めて献身的に仕えることができるようになる手段のことである。完全に自己を満足させるためには、そのような献身奉仕が不純な動機を持たず、途切れることなく行われなくてはならない。 ー 法話の内容から ー もし、あなたが神を愛することを学んだならばどんなタイプの宗教にあなたが従っていていたとしても、そこは問題ではありません。バーガバタムというのはとても寛大なのです。神を理解するにはヒンズー教じゃないといけないとか、この宗教に従わないといけないとか、あのタイプの宗教じゃないといけないとは言っていません。どの宗教でもかまわない、そこが問題じゃないのです。でも、問題は、あなたが愛というものを培っているかどうか、大きく育てているか、とうことです。このことは、シュリマード・バーガバタムの中で説明されています。大切なのは神への愛を成長させているかということです。
2021-04-291h 24A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 15 (バーガヴァタム1-2-6)Title:『このステキな車はさびている』 1972年9月5日、インド、ニューブリンダーヴィンで行われた法話です。 ŚB 1.2.6 स वै पुंसां परो धर्मो यतो भक्तिरधोक्षजे । अहैतुक्यप्रतिहता ययात्मा सुप्रसीदति ॥ ६ ॥ sa vai puṁsāṁ paro dharmo yato bhaktir adhokṣaje ahaituky apratihatā yayātmā suprasīdati 全人類にとっての至高の職務(ダルマ)とは、超越的なる主に愛を込めて献身的に仕えることができるようになる手段のことである。完全に自己を満足させるためには、そのような献身奉仕が不純な動機を持たず、途切れることなく行われなくてはならない。 ー内容からー クリシュナはおっしゃっています。私はこのような人に知性を与えると。1日奉仕をしている人です。献身奉仕に従事している人です。愛と献身のこもった奉仕です。この本当の愛の兆候とは、もっとも重要な愛の兆候とは、それはどういうものかということです。主の名前、名声などがひろく世に知れ渡ってほしいと望むことです。これが愛です。もし私が誰かのことを愛したなら、その人の栄光が世界中に広がってほしいと望むはずです。また、クリシュナもバガヴァッド・ギーターの中でもおっしゃっています。クリシュナの栄光を讃えたいと思う人はその人以上に親密な人はいないと。すべてがバガヴァッド・ギーターに書かれています。どのようにして愛すればいいのか、愛の兆候とはどのようなものか、どのようにすれば神を喜ばせることができるか、クリシュナはあなたとどのように話をするのか、すべてのことが書かれています!
2021-04-281h 30A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 14 (バーガヴァタム1-2-6)Title:『高位の債務』 1975年10月4日、モーリシャス島で行われた法話です。 ŚB 1.2.6 स वै पुंसां परो धर्मो यतो भक्तिरधोक्षजे । अहैतुक्यप्रतिहता ययात्मा सुप्रसीदति ॥ ६ ॥ sa vai puṁsāṁ paro dharmo yato bhaktir adhokṣaje ahaituky apratihatā yayātmā suprasīdati 全人類にとっての至高の職務(ダルマ)とは、超越的なる主に愛を込めて献身的に仕えることができるようになる手段のことである。完全に自己を満足させるためには、そのような献身奉仕が不純な動機を持たず、途切れることなく行われなくてはならない。 ー内容からー 人間の人生のというのは快適に過ごすためにあります。そして、絶対真理は何かを理解することです。私たちの人生はいったいなんだろう?、人生の目的はいったいなんだろう?このようなことを理解するためにあります。豚や犬も死にます。そして人間も死にます。 しかし、わたしたちは人生の目的、ゴールはなんであるかを理解できます。しかし、豚や犬には理解できません。ですから、ヴェーダンタスートラの始めの格言に、人間の人生としての忠告があるのです。人間としての体がどこではじまったかということは問題ではありません。アメリカであろうとインドであろうとどこで体を得たとしてもそれは問題ではありません。人生は人生です。ですから、人間のやること、それは絶対真理に対して問うことです。それが幸せへの教えです。ですから、わたしたちはこの人間社会の中で宗教の姿というものをみつけます。それがキリスト教であろうと、ヒンズー教、イスラム教でも構わないのです。人間ですからなんらかの形の宗教があるはずです。その宗教とは何でしょうか?
2021-04-251h 39A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 13 (バーガヴァタム1-2-6)Title:『クリシュナは明るい側にしか関与しない』 1974年2月27日 インド、カルカッタで行われた法話です。 ŚB 1.2.6 स वै पुंसां परो धर्मो यतो भक्तिरधोक्षजे । अहैतुक्यप्रतिहता ययात्मा सुप्रसीदति ॥ ६ ॥ sa vai puṁsāṁ paro dharmo yato bhaktir adhokṣaje ahaituky apratihatā yayātmā suprasīdati 全人類にとっての至高の職務(ダルマ)とは、超越的なる主に愛を込めて献身的に仕えることができるようになる手段のことである。完全に自己を満足させるためには、そのような献身奉仕が不純な動機を持たず、途切れることなく行われなくてはならない。 ーーーーー内容からーーーーー クリシュナはあらゆる活動から守ってあげようと保証している。 わたしたちはこの物質世界で苦しんでいます。なぜならわたしたちはこの人生を罪深い活動ばかりばかりしてずっとそれをし続けているからです。罪深い活動とは自らの感覚を喜ばせる行動です。 この悪質な人々はただただ感覚を満たすことだけを求めている。そしてあらゆる種類の罪深い行動をしている。 たとえば、クリシュナはあらゆるたべものを与えてくださっているのに、それでもわたしたちは動物を殺している。ただ舌を満たすために、私たちはたくさんの動物を殺し、屠殺場をつくっている。そうやって幸せになりたいと思っています。 自分の生活、自分の人生というものを、それほどにも罪深い活動でいっぱいに満たしておきながらそれでいて幸せになろうというのですか?そんなことできるはずがありません。 罪深い活動をどうやったら避けることができるでしょうか? 続きをお聴きください!
2021-04-2358 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 12 (バーガヴァタム1-2-6)Title:『求められるのは東と西の協力』 1973年7月23日、ロンドンで行われた法話です。 ŚB 1.2.6 स वै पुंसां परो धर्मो यतो भक्तिरधोक्षजे । अहैतुक्यप्रतिहता ययात्मा सुप्रसीदति ॥ ६ ॥ sa vai puṁsāṁ paro dharmo yato bhaktir adhokṣaje ahaituky apratihatā yayātmā suprasīdati 全人類にとっての至高の職務(ダルマ)とは、超越的なる主に愛を込めて献身的に仕えることができるようになる手段のことである。完全に自己を満足させるためには、そのような献身奉仕が不純な動機を持たず、途切れることなく行われなくてはならない。 ー    法話の内容から   ー 粗悪な人は体で幸せになればいいと勤めています。そういう人はカルミーと呼ばれます。 少し高い段階の人は、メンタル面で幸せになりたいと思う人です。そういう人はギャーニーと呼ばれます。 スピリチュアルに精神的に幸せになりたいと思う人、そういう人をヨーギーといいます。ヨーギーにも色々な種類があります。第1級のヨーギーはバクティーヨーギーです。バクティーヨーギー、クリシュナはバガヴァッドギーターの中で説明しています。こんな人が第1級のヨーギーだと説明しています。第1級のヨーギーとはどんな人でしょうか?
2021-04-211h 02A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-2051 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-181h 05A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-171h 08A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-1550 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-141h 07A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-121h 13A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-121h 28A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-1037 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-1051 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-0856 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-081h 18A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-0522 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-0347 minA・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-021h 03A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話2021-04-011h 02A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 3 (バーガヴァタム1-1-2)Title:『クリシュナの慈悲にすがる』 1975年2月23日、ベネズエラのカラカスで行われた法話です。 ŚB 1.1.2 धर्म: प्रोज्झितकैतवोऽत्र परमो निर्मत्सराणां सतां वेद्यं वास्तवमत्र वस्तु शिवदं तापत्रयोन्मूलनम् । श्रीमद्भागवते महामुनिकृते किं वा परैरीश्वर: सद्यो हृद्यवरुध्यतेऽत्र कृतिभि: शुश्रूषुभिस्तत्क्षणात् ॥ २ ॥ dharmaḥ projjhita-kaitavo ’tra paramo nirmatsarāṇāṁ satāṁ vedyaṁ vāstavam atra vastu śivadaṁ tāpa-trayonmūlanam śrīmad-bhāgavate mahā-muni-kṛte kiṁ vā parair īśvaraḥ sadyo hṛdy avarudhyate ’tra kṛtibhiḥ śuśrūṣubhis tat-kṣaṇāt 物質的な動機に基づく宗教活動の一切を完全に拒絶するこの『バーガヴァタ・プラーナ』は最高の真理を提議し、完全に純粋なハートを持つ献身者はこれを理解することができる。最高の真理とは万人の幸福のために幻想と区別させる真実のことであり、この真理は三重の苦しみを根こそぎにする。偉大な聖者ヴィヤーサデーヴァが(彼の円熟期に)編纂したこのすばらしいバーガヴァタムには、神を悟るためのすべてが満ちている。他の教典の必要性など、どこにあろうか?細心の注意を払ってバーガヴァタムの言葉に従順に耳を傾ける者はこの知識を習得して、ハートの中に至高主を定住させることができるのである。
2021-03-301h 02A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 2 (バーガヴァタム1-1-1)Title: 『車はフォード、でもフォードは車じゃない』 1975年2月21日、ベネズエラのカラカスで行われた法話です。 ŚB 1.1.1 ॐ नमो भगवते वासुदेवाय जन्माद्यस्य यतोऽन्वयादितरतश्चार्थेष्वभिज्ञ: स्वराट् तेने ब्रह्म हृदा य आदिकवये मुह्यन्ति यत्सूरय: । तेजोवारिमृदां यथा विनिमयो यत्र त्रिसर्गोऽमृषा धाम्ना स्वेन सदा निरस्तकुहकं सत्यं परं धीमहि ॥ १ ॥ oṁ namo bhagavate vāsudevāya janmādy asya yato ’nvayād itarataś cārtheṣv abhijñaḥ svarāṭ tene brahma hṛdā ya ādi-kavaye muhyanti yat sūrayaḥ tejo-vāri-mṛdāṁ yathā vinimayo yatra tri-sargo ’mṛṣā dhāmnā svena sadā nirasta-kuhakaṁ satyaṁ paraṁ dhīmahi 我が主よ、ヴァスデーヴァの息子シュリー・クリシュナよ、あまねく満ちわたる人格神よ、あなたに尊敬の礼をささげます。そしてあなたを瞑想いたします。なぜなら、主シュリー・クリシュナは絶対真理であり、現れた宇宙の創造、維持、破壊のあらゆる原因の元となる原因だからです。主は現れている一切万物を直接的にも関節的にも認識しておられ、また主を越える原因など存在しないため自主独立なさっています。主は、原初の生命体であるブラフマージーのハートの中に最初にヴェーダ知識を授けた唯一のお方です。幻想に惑わされて火中に水が見えたり水上に陸地が見えたりするように、偉大な聖者や神々でさえ主によって幻想の中に陥れられます。物質宇宙は現実ではないにもかかわらず、自然の三様式の反動によって一時的に現われて現実のように思わせます。これは主の原因に他なりません。ゆえに私は、物質世界に現れる幻想とは永遠に無縁な超越的住居から決して離れることのない主シュリー・クリシュナを瞑想いたします。主は絶対真理でいらっしゃるがゆえに、私は主を瞑想いたします。
2021-03-261h 08A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話
A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ法話プラブパーダ法話 1 (バーガヴァタム1-1-1)Title: 『次から次へと問題が起こる』 1975年 2月20日に行われた法話です。 ŚB 1.1.1 ॐ नमो भगवते वासुदेवाय जन्माद्यस्य यतोऽन्वयादितरतश्चार्थेष्वभिज्ञ: स्वराट् तेने ब्रह्म हृदा य आदिकवये मुह्यन्ति यत्सूरय: । तेजोवारिमृदां यथा विनिमयो यत्र त्रिसर्गोऽमृषा धाम्ना स्वेन सदा निरस्तकुहकं सत्यं परं धीमहि ॥ १ ॥ oṁ namo bhagavate vāsudevāya janmādy asya yato ’nvayād itarataś cārtheṣv abhijñaḥ svarāṭ tene brahma hṛdā ya ādi-kavaye muhyanti yat sūrayaḥ tejo-vāri-mṛdāṁ yathā vinimayo yatra tri-sargo ’mṛṣā dhāmnā svena sadā nirasta-kuhakaṁ satyaṁ paraṁ dhīmahi 我が主よ、ヴァスデーヴァの息子シュリー・クリシュナよ、あまねく満ちわたる人格神よ、あなたに尊敬の礼をささげます。そしてあなたを瞑想いたします。なぜなら、主シュリー・クリシュナは絶対真理であり、現れた宇宙の創造、維持、破壊のあらゆる原因の元となる原因だからです。主は現れている一切万物を直接的にも関節的にも認識しておられ、また主を越える原因など存在しないため自主独立なさっています。主は、原初の生命体であるブラフマージーのハートの中に最初にヴェーダ知識を授けた唯一のお方です。幻想に惑わされて火中に水が見えたり水上に陸地が見えたりするように、偉大な聖者や神々でさえ主によって幻想の中に陥れられます。物質宇宙は現実ではないにもかかわらず、自然の三様式の反動によって一時的に現われて現実のように思わせます。これは主の原因に他なりません。ゆえに私は、物質世界に現れる幻想とは永遠に無縁な超越的住居から決して離れることのない主シュリー・クリシュナを瞑想いたします。主は絶対真理でいらっしゃるがゆえに、私は主を瞑想いたします。
2021-03-2248 min